ケータイの(関係ない)話がちょっと長くなったから別にした。うん。
そいでケータイってもはや「携帯電話」ではないのだ、ってよく聞くよね。
「携帯電話」ではなく「携帯情報端末」なんだって。
でもそうすると「携帯端末」はそのうち消滅する気がする。今現在の
ケータイシステムも、パーソナルデータってどっかで管理されてる場所が
あるんだよね。そうすると、そのサーバへの接続にロックをかけて、生体
認証にする。
それで端末を偏在させて、誰でも使えるように開放すればさ、
パーソナルな端末を個人が持ち歩く必要ないような気がする。
電脳眼鏡もなんもいらないんじゃないの?
ん、でも安全性は別の話だしなー。
あとはインターフェースへの(ガジェットとかの)フェティシズムがあるけど、
それは大した問題じゃあない。
最近ケータイのデコとかあるんだよね。3500円くらいで。
あれは、デコそのものへの欲望ではないような気がする。そうではなくて
身の回りのものの隅々まで気を回している状態を維持したいんじゃない
かな。デコとかきらきらしてると、「あ、この人、気つかってんなー」って
わかるじゃん?
だからデコは原因ではなく結果なんだよ、たぶん。
デコがしたいという気持ちがはじめからあったんじゃなくて、
「デコしていないケータイ」を持ってるのがいやだからデコを
しているんだろう。
あるいは、デコ文化はたぶんネイルアートから派生したものだと思うけど
ネイルアートは身体装飾の進化態だもんね。だから逆に、ケータイも
身体の延長として感覚されているってこともあるよね。
ごめん適当にかいてしまった。
こっから筋を取り出すとすると、「気づかい(配慮)」としての「デコ」って
ところから簡単なコミュニケーション論と欲望論ができそうかな。
でも「AR(拡張現実)・都市デザイン」の方はぼくには無理だな。これ以上
むつかしいことは考えられない。
「私有する端末」のイメージを崩す仕事を誰かやってくんないかな。でも
言ってることは「OutlookからGmaiへ」ってのとあんまり変わらないとおもう
んだけどなあ。
そいでオチだけど、「インターフェースへのフェティシズム」ってある程度の
ところまで行くと、結局「長門」じゃねーかっていうね。
いえ、オチましたとも。