「努力」を巡って、補考。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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本稿はこの記事の補考です。

まだ読んでいない人はぜひ読んでね。

□「努力」を巡って

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10514131442.html



宮崎駿監督のアニメにはときどき「大人の男」が登場する。

宮崎さんは「大人の男」の条件をどのように考えている

だろうか。


「ひげが生えていること」でも「体が大きいこと」でも

「権力があること」でも「お金をたくさん持っていること」でもない。

それはどうも、「余計なことをぐちぐち言わないこと」と

「よく働くこと」、そして「子どもの味方であること」であるように思う。

ぼくはこれらのどれにも強く同意するものだけれど、

ここで考えたいのは「余計なことをぐちぐち言わないこと」という

美徳についてである。


『「努力」を巡って』ではくだくだと書いたけれど、ここで問題と

なっていたのは結局のところ、「余計なことをぐちぐち言わないこと」

という美徳だった。


* * *


テスト勉強がわかりやすい。

テスト直前になって慌てて勉強をしている人を指差して、

日ごろからコツコツと「努力」を積み重ねた人が笑う。


きみは「努力」を知らないんだな、って。


でも、ぼくたちはもう知っている。

「日ごろからコツコツ」してきた後者の「努力」は、

「手段としての努力」にすぎない。


反対に、テスト直前になって慌てて勉強をしている人は

その間、何をしていたのだろうか。

それは人によって違うと思うけれど、中には「遊び」で、

何の為とは無しに、ただ楽しいから、あることを「努力」してきた

者もあるのではないかな。


彼はもはやそれを「努力」とは認識していないかもしれない。

だって楽しいから、やっていたわけだからね。

でも、真に「努力」を知っているのは、そういう人の方なのだ。


* * *


ぼくがキモチワルイと思ったのは、

「きみは「努力」を知らないんだな」って笑ってる奴のことだ。

そして、ぼくは「きみは「努力」を知らないんだな」って笑われて

頭を掻いている人の「決して顕在することのない努力(?)」を

肯定したかったのだ。

「余計なことをぐちぐち言わないこと」という美徳は、

孔先生の仰った「巧言令色鮮なし仁」ということである。

巧妙な言葉、したり顔、そうした中に人道はあまりない、という

意味だ。


真の努力だなんだと言ったけど、そうしたことはあまり大事じゃない。

肝心なのは「黙って手を動かす人」の方が貴いということだ。


で、「品性」について。

ぼくとしても大変残念なんだけれど、一般に、「上品になれよ」っていう

ことを上品な人間が下品な人間に対して「教導訓育」してやることは

ありえない。


というのは「上品というのは、それ自体で満足していること」とするならば

上品な人間は状況に全く満足しているから、それを改めて語るなんてこと

をしないから。

「上品」、「下品」っていう言葉が必要なのは、下品な人間だけだ。


というわけで、ぼくもまた下品にして「鮮仁」な人間なんだな。


ちなみに、この品性論はニーチェの「貴族-大衆」論を下敷きに

している。

ニーチェの貴族とは、「超人」とも言われているものだけれど、

表記が超-人であることからもわかるように人間ではない。

ニーチェは人間的な価値はみんなバカにしている。

例えば、彼に言わせれば「愛」だって下品なんだよね。


ぼくは小物なのでそんなことはないと思っている。

(ぼくはニーチェにはなれないね)

だから、先の品性論もだいぶ疑わしくはある。

理論ってのはベンリだから使うのであって、「ダメだこりゃ」と

思ったら取り外すべきなんだろう。


motarikeさんのご指摘。


>>日本人の成功者は自分の努力自慢するかもしれないけど、

海外の成功者って大した努力せずに運と才能で成り上がった人が

多くない?


これは「運」と「才能」の定義によるのだろうけど、ぼくは次のように

考える。「運」とは「余計なことをしないこと」の別名であり、

「才能」とは「努力できること」の別名である。

だからどちらも「努力」が問題なんじゃないかってね。


かの東郷平八郎は大変に運気の強い男として知られていた。

彼の「運」の源を教えるエピソードがある。

東郷が表を歩いていたとき、前方から馬が通りかかったのを見て

道の反対側に回ってそれを避けたのだそうだ。

それを見た人は「武人が荷を引く馬くらいで情けない」と笑ったそう

だが、東郷はこう答えた。

「それがおとなしい馬であっても、何かの弾みに暴れだすことがある

かもしれない、今度がそのときでないとは言えないだろう。道を避けて

いれば馬が暴れても逃れることができる。」

「荷馬に蹴られてつとめに支障が出ることこそ武人の恥である。」


才能については、理由は何であれ「努力できない奴」をして

ぼくたちは習慣的に「才がない」と言っているのである。

努力しても必ずしも報われるわけじゃないけど、努力のないところに

成功はない。ぼくはそう考える。


ABのご意見。

>>個人の価値観を一元的に押し付けられるのがイラッとくる
お互いに自己満足なだけなのに一方的に扱われるのが理不尽なのさ


気持ちはとてもよくわかる。

かような「絶対的な価値なんてどこにもないじゃないのよ」という

気分をもって、ニヒリズムという。

ニーチェは「向こう二百年ニヒリズムの時代だ」と言ったわけだけど、

ぼくらはみな等しく現代っ子ってわけだね。