ぼくが私淑する内田樹先生は、ウェブ時代において大学機関が
果たすべき役割を論じるにあたって、知を二種に大別しました。
それはすなわち、「ランダム・アクセス」系知見と
「シーケンシャル・アクセス」系知見との別です。
アクセス、ということですから、これらは、その情報への「経路の
在り方」が違うのだということがわかります。
これは大雑把にいえば、「ランダム・アクセス」=「ウェブ」、
「シーケンシャル・アクセス」=「書物」ということになるのですが、
「ウェブ」も「書物」も性質が多岐にわたっていますから、これでは
そのうちの何を指して話しているのかよくわかりませんね。
「ランダム・アクセス」とは「辞書(ビジネス書)的な技法」、
「シーケンシャル・アクセス」は「小説的な技法」だと考えてください。
ぼくは読書をしていて、ふと思ったことがありました。
「ビジネス書」であれば目次にさっと目を通して気になった章から
「読みつぶす」ことができます。だけど、小説はそうはいかない。頭から
コツコツと読みすすめるほかにありません。
では、小説的な技法は辞書的な技法に劣っているのかといえば、
そういうわけではない。どちらにも一長一短あるわけですから、場に応じて
使い分けるのがよいということでしょうね。
「ランダム・アクセス」は、逐語検索的手法です。
自分が知りたいと思っていることをピンポイントで知るには、
こちらの方が「シーケンシャル・アクセス」よりも速い。
その筆頭が「ウェブ」であり、ウェブが齎した知の遍在化、情報検索技術の
目覚しい発展については周知の通りです。
しかし、逆に言えば、「自分が知りたいこと」、すなわち、彼/彼女がすでに
現に持っている知見の限界性の中でしか思考が働かないことになり、
腰を据えて一つの問題を考え抜くことはできないのではないでしょうか。
そして、正にそのような思考をする人のことを以って、吉本隆明センセイは
「大衆」と呼んだのでありました。
「大衆」が生きるのは「理念」によってでも「天皇制」によってでも「擬制」
(=国家や民族といったものを体制化しようとする思考の幻想性)に
よってでもありません。彼らは勝手気ままに生きていく。
それもある種の「抑圧への抵抗」戦略においては大きな力になりうるし、
ぼく自身もまたそういった民族誌的バイアスの影響を素朴にもろに受けて
いる。その「内部」に属するんだ、ということは何度でも確認されるべき事実
です。
しかし「みんなと一緒」に安住する日常的思考では、孤独に勝てません。
経験からぼくはそう考えます。
そこに、「シーケンシャル・アクセス」系知見の必要性が出てきます。
「シーケンシャル・アクセス」は、その語の意味のシステムであり差異づけ
の体系、それそのものを遡及的に主題とすることのできる技法です。
なるほど確かに、自分が知りたいと思っていることをピンポイントで知るに
あたっては「ランダム・アクセス」の方が、より優れているかもしれない。
けれども、そこはそれを問うべき私自身が、自分のもつ現在の知見の
限界性の内には含まれていない言葉、「知らないはずの問い」をうっかり
口に出してしまうような場所なのです。
ですから、ぼくたちが自己の思考のフレームの解体と構築を志し、
「もはや私ならざるもの」への変化を恐れないのであれば、
「シーケンシャル・アクセス」というやり方で前に進むべきだと、ぼくは
思います。
さて、ところで、「シーケンシャル・アクセス」と「ランダム・アクセス」は
互いに相補的に働きます。
「自己の思考のフレームの解体と構築」は、厳密には、今ここにいる
「私」には不可能な所作であります。だって、私による私の解体って、
「ウロボロスの輪」のように、自己言及が生じていますよね。
あるいは、ブラックジャックがオーストラリアで伝染病にかかったときに
自分で自分のお腹を切開した場面を考えてもいい。
ぼくたちはここで「できないこと」を為さなければなりません。
ここではできる限りでその道筋を考えてみましょう。
先に議論に上がった「なぜ「シーケンシャル・アクセス」系知見」が必要
なのか?」という問いと循環を描いてしまいますが(これは学びの本質に
触れているように思います)、「私の解体と構築」という大事に臨む人間に
必要とされるのは、「勇気」です。
勇気という美徳もまた、程度問題です。足らざれば臆病となり、過ぎれば
蛮勇となってしまう。
そこではクールネスとホットネス、どちらも欠けてはいけない。
両方がそろって初めて「勇気」なのですね。
ではホットネス、クールネスとは何でしょうか?
ぼくはホットネスとは好奇心、クールネスとは敬虔さだと考えます。
好奇心、わかっちゃいるけどやめられない。
これは「ランダム・アクセス」系知見への接近です。
「思考とは文体である」のでしたが、その文体を規定するのは知識です。
知るとは語るということであり、業績原理の下では沈黙とは端的に無知と
して扱われることになります。一見厳しいように思われますが、「趣味の
洗練」、あるいは「職能の練磨」、すなわち状況を通じた身体の不可逆な
変性とは、それよりもよほど「厳しい」ことだったのではないでしょうか。
「知識」、そして「労働」ということの見直しが必要かもしれません。
対して、敬虔さ、あるいは「不穏の下をノンブレスで泳ぎ抜く力」。
「私」への畏怖、無-知、未-知への畏怖のことでした。
こちらには、大まかにいって、二つの方向があります。
すなわち、実存主義的現象学とエピステモロジーの二つの大きな潮流
です。
大まかに言えば前者は人間の内側へ向って、極限まで考え詰めていく
方向、後者は人間の外側を構成する閾を考えていく方向です。
しかしここでは、どちらも人間的情況を食い破ろうとする知性の運動
であることを考えて、一つの態度と考えます。
思想史的にはそれらは別の系譜をとっているようですが、ぼくには
統合の可能性が想われます。
最後に、「勇気ある知性」のとる具体的な容姿を、再び内田先生に戻って
教えていただきたいと思います。
「勇気ある知性」とは、「喜劇役者」です。
以下に、少し長いですが、内田先生が先生の師であるレヴィナス先生の
もつ知性、「喜劇役者」的知性について語った文章を引用します。
* * *
「常識的な大人」としては、「知は絶対的でも相対的でもない」というあたりに
落ち着きたいものです。でもこれは必ずしも「じゃあ、ナカとってさ」という
妥協策ではないと思います。
ちょっとその話をしたいと思います。(中略)
作りものの芝居であることを知りながら、それを大まじめに演じる喜劇
役者を私たちは愛します。彼が悲劇役者と違うのは、巧緻をきわめた演技
と演技のあいだに、瞬間的に「素」にもどって、それが「ただの芝居でしか
ないこと」を私たち観客に目配せで知らせる、というアクロバシーを演じる
点にあります(悲劇役者は絶対に「素」にもどりません)。
知というのは、「自省的な機能」の別名である、と私は考えています。
「自省する」とは、ある絶対的に安定したクリアカットな眺望をもつ視座に
立つ、という静止的な「状態」のことではなく、複数の視座を往復する「運動」
だと私は思います。
すぐれた喜劇役者は「芝居の役の人物」と「役者という職能者」と「素顔の
彼自身」の少なくとも三つを同時に演じ分けます。そのめまぐるしい往還の
うちに、そのつどの視座から「彼自身」と「彼をふくむシステム」を眺める「視
点シフト」のスピードに、私たちは魅了されるのです。(中略)
「弁証法的である」こととはそのように自分たちが対立している場そのもの
を俯瞰するような視座に(想像的に)同時に移行できるような知性の運動の
ことだと思いますが、そのためには自分が「舞台の上」にいて、ある演技を
しているにすぎないこと(場の相対性についての覚知)、そしてその演技を
全うするほかに「善きもの」を生み出す道がないこと(場の絶対性について
の覚知)を同時に引き受けていなくてはなりません。(中略)
レヴィナス先生は「信仰をもち、それを実践する私」と「信仰を持つことの
意味を哲学的に省察する私」という二つの視座のあいだを絶妙なステップ
で往還していました。そして、老師のそのような知性の運動のしなやかさに
私は深い敬意を抱いたのです。
(『大人は愉しい』、内田樹・鈴木晶共著、ちくま文庫、第一刷、「知性と信
仰」(p119)より引用。)
* * *
ぼくは、このような「勇気ある知性」に強く惹かれます。
ですから、ぼくが選ぶ「知の方法」とは、「喜劇役者」のそれしか考えられ
ないのです。
「勇気ある知性」へ!!