どうしてぼくは過去について語りえないのか? | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「それが何であるかは事後的に回顧される形でしか

与えられない」のでした。


さて、ではこのことにもう少し突っ込みを入れてみましょう。

君は何で「それ」を回顧しなくちゃいけないんだ?


この問いは人間の本質に関わる問題です。

とても根が深い問題。

「ラディカルであるとは根源的であるということだ」と仰ったのは、

かのマルクス老師ですが(たぶん)「根が深い」とはラディカルである

ということですね。

つまり、これ大事!


「人間は自分の欲しいものを、人に贈ることによってしか手に入れる

ことができない」とはレヴィ=ストロース先生の言葉です。


なぜ過去を回顧しなければならないのか。

ぼくたちはその問いの答え、すなわち「回顧をする動機」を、

自分の内には見つけることができない。


ぼくが回顧をするのは、もちろん、「きみの為」だ。

「きみ」に、昔話を面白おかしく語って聞かせる為に、過去のことを

想うのである。


4U!


「人間」とは、正にそのような事況を指すのである。

いや、全く素晴らしい。


「きみ」に向けて過去のことを語った後、どうなるだろう。

ここで問題。

「ぼく」が期待する「きみ」の反応はつぎの内どちらだろうか。


①「うん、とてもよくわかったわ。」

②「うーん、まだあんまりわからないわ。」


正解はもちろん②番。

「わかったよ!もうたくさん!」

「まだわからないから、もっと続きを話して。」

ほらね。


コミュニケーションの目的は「正確な情報の伝達」ではない。

コミュニケーションの目的は「コミュニケーション=交換」それ自体

なのである。

人間は交換がとっても好きです。

と、これは、実はことの順逆が転倒していて、交換に愉悦を見出した

サルのことを、習慣的にニンゲンと呼んでいるのです。


これを踏まえて、過去について語った場面を考えてみよう。


ぼく「…だけど、みんな気まずそうに目線を落として、一向に黙った

ままだったんだ。誰もまるで口を開かない。教室は完全な静寂に

包まれていた。それは実際にはせいぜい十分ほどのことだったの

だろうけれど、ぼくたちには無限の時間のように感じられた。」


きみ「えー、Aくんかわいそう。」


ぼく「えっ。…そっそうだとも。そういえばそうだった。思い出したぞ。

そこでぼくは意を決して椅子から立ち上がり、叫んでやった。

「待った、Aじゃない。犯人は、ぼくだ!」

ぼくはもう無我夢中だった。そのあとどうなるかなんて考えられ

なかった。ぼくはただAのことを考えていたんだ。気がついたら

Aの代わりに罪を被っていた。」


きみ「ひょろくんかっこいい!」


ぼく「でへへ。」


お分かりいただけただろうか!

「ぼく」が過去について語るとき、そこには「きみ」の反応への期待が

含みこまれてしまうのだ。

そこで語られた過去を語ったのは「ぼく」ではない。ここでは、ぼく

にはあまり自由がない。

しかし、かといって「きみ」でもない。きみはただ過去が語られる現場に

立ち合っているにすぎない。


ここで語ったのは、「ぼくが想像するきみの欲望」だ。

きみはきっと、こんな話を聞きたいだろう、と勝手に判断して、それに

合わせて、そこからフィードバックを受けて、ぼくは語ったのだ。

ラカンはこれをして「過去は前未来形で語られる」と言った。


以上が、過去については語りえないということの意味である。