述べて作らず、ゆでマシマロ。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こんばんわー、ひょろです。

みなさんとくにお変わりございませんか、ございませんね。

ここのところ、春の兆しが花粉として、はなズルズルとして、

身体に表れてきていて、もうほんとうにすぐそこまで来ている

のを感じます。

ぼくですか、ぼくもはなズルズルくらいでとくになにも

変化はございません。

そうですね、変わらないことも、あるいは、よいことなのかも

しれませんね。


それでですね、まるすけさんに、

「流行の模倣って、オリジナルの偶然の一致が重なったって

捉えられないかしら。」

という問いについて別立てでお答えします、と、

約束したんですけれども、

しばらく考えて、やっぱり、なんだかあんまりよくわからない。


おひまな方がいらしたらぜひお手伝いしていただけたら

うれしいな、とも思います。


まだ混乱しながらもぼくが考えているのは、

01「一見「流行の模倣」であるものが、実は全きオリジナルで

あって、たまたま同じデザインになっているだけだ」と見なす

ことは、一応できる。


02けれども、本質的には、「全きオリジナル」というのは、

全て事後的に構築された神話であり、創作といわれるものも

その実、模倣である。


03では、創作的であるもの、革新的であるもの、「新しいデザイン」

というものは、どのようにして可能であるのか、あるいはできない

のか。


ということです。

このミソ、というか混乱のたねは、「模倣」ということばの使いかた

ですね。


あるデザインのかげには、それに先行する既存のデザインという

ものが必ずある。

「模倣」、というのは、「真似び」ということと同じですが、

「真似び」あるいは「学び」ということは、

たぶん、ある動的なプロセスのことを指していて、具体的には

「守・破・離」という一連の動作のことだろう、と。


守も破も離もやはり「真似び」、「模倣」だということです。

「守・破・離」、ということは、どれかひとつを取り出してみることは、

たぶんできなくって、必ず連続してしかありえない。

守、破、離、は、部分ではないのだと思います。


作る、というのは、少し違う。

これは、孔丘先生仰るところの、「述べて作らず」という

ことだと思います。


あくまで私は、祖述しているのに過ぎないのであって、

何もないところから作るというわけではないのだ、ということ。


人間の想像力なんて、たかが知れている。

自分の不能さを「曇りなき眼で」、しかと見つめることが

できる人間だけが、「真似」ているうち、知らないうちに、

新しいものを作ることができる、ということなのだと思います。


とりあえず、これで02の一部の「創作とは模倣である」は

ちょっとだけ説明できました。

ごめんね、まだぼくもよくわかっていないので、きちんと

まとめることができません。


そいで、02の残りの、「(全き)オリジナルというのは、

全て事後的に構築された神話である」というのは、

01と同じことかな、と思います。


だって、もう、ぼくたちが語ることのできることなんて、

一通り語りつくされてしまったのではないですか?

どこかでたぶんすでに語られているんじゃないかしら、

と、ぼくらは思う。


いいですか、ちょっとトリッキーだけど、こういうふうに

考える人間だけが、「まだないもの」にふれることができる

んですよ。私は祖述しているだけです、という人間だけが

新しいものを生み出すことができるのだった。


はい、これで、03の問いにも答えることができました。


あとは「オリジナルというのは、全て事後的に構築された

神話である」から、

「私(オリジナリティ)という神話はいかにして構築されるのか」

という問いを引き出します。


これはですね…。たいへんにむつかしい問いのひとつです。

とりあえずぼくが考えているのは、「自己言及の困難」という

問題ですね。これもよくわからないのだけれど、

自分とは何か、という問いには、私ってこういう人なのよ、

と返すしかありません。ぼくにとっての「ぼく」というのは、

もちのろんろん、「ひょろ」でしかありえないのであって、

「まるすけさん」にとっての「まるすけさん」の関係と、たぶん

相似的です。


そして、つぎに、「私ってこういう人なのよ」と、自己紹介を

するのはどういう事態なのか、を考えます。


こういうときって、語っている私と、語られている私って、

どうしても乖離しますよね。


わたしって、こういう人なんですよ、って、誰かに

説明してみてください。

そういうとき、ぼくらはどうしても、「こんな人」だと思って

欲しいな、という願望を反映した自己像を語りだしてしまいます。

この事況を、ラカンは「過去は前未来系で語られる」と

言い表しました。


これは、でも、しかたのないことですよね。

でもこうして「きれいな私像」について語ったとき、それが、

当の私ではないなー、と、一番強く思うのは、他でもない、

私自身です。


だって、俚言にあるとおり、「ジブンニハウソツケナイ」ですよね。


これが、大まかに言って、「自己言及の困難」というものです。

これは自分についての問題ですが、しかしあらゆる「語り」ということ

についてもいえる。

というのは、私による「語り」というのは、常に、私の痕跡(汚れ)を残して

しまうものであるからです。

「私による語り」は全て、同時に、「私についての語り」でもある。


ということは、どんなことであっても、語れば語るほど、どんどん、

自分の言葉ではなくなっていく。

すごい嫌な感じ、言い足りない、言いすぎてしまう、語れば語るほど

きもちわるい。

このことをして、埴谷雄高さんは「自同律の不快」と呼びました。

「口を噤むべきか否か」、という問いは、『ライ麦畑でつかまえて』に

おいても思考されています。


そして、ここまでが、「私という神話の構築」の、半分の行程です。

こっから先は、まだぼくにもよくわかんないです。


だれかこうじゃないの、っていうヒントがある人は、ぜひ

教えてくださいな。

じゃあよろしく。