やっぱり、交換は楽しい。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


最近「コミュニケーション」ということがなんなのか、

ようやくわかりつつあります。


コミュニケーションというのは、「交換って楽しいよね」って

交換することをさんざんやって、続けていくことで、

それ自体として勝手に満足しているような事況のことなんだ!

ってことなんじゃないかしらん。

「ないかしらん」っていってますが、これは、強い言い切りの

形です。

「あれって「そういうもの」よね」っていう言葉ほど強力なものは

ないです。ぼくはそう思います。


意味がとりづらいですね、同じことをもう一度書きますが、

コミュニケーションとは、「交換って楽しいよね」ということを

現に嬉々として何かを交換し続けていることによって、遂行的に

表している事況のことなのかなーと…。


なんだか書いている内に自信がなくなってきましたが、

「交換は楽しい」というのはめちゃくちゃ正しいです。

これはホント!


指摘したいのは、「二人では伝言ゲームができない」ということ

です。


一般に、人間が何かについて語る、というのは、その度に

伝達されるものが汚れていきます。

ノイズというか、微細な差異がちょーっとだけ加わる。

傍から見れば、ほんとうにちょっと、ほとんどないくらいの

汚れ、なんだけれども、それを受け取った人には、あ、ちょっと

匂いというか体温のちがい、というか「違うな」と、確かに

わかる。

もしかしたら、ふだん、「身体感度」を著しく落とすソリューション

を選択して、そのことからベネフィットを得ているような人が

いたら(けっこうたくさんの都会人はたぶんそうですよね。)、

意外と気づかないのかもしれない。


どうなんだろう。

ぼくも、もしかしたらぜんぜんわかってないのかもしれへん。


で、伝言ゲームの話だった。

二人では、伝言ゲームは、できない。

こっちにパサーがいて、あっちにレシヴァがいるときには、

たぶん、パスして、帰ってきて、もっかいパスして、というのが

見えちゃうからかな。

だから、たぶん、「相手が介することによる汚れ方」が、

もう見えちゃうから面白くないんだと思う。


あるいは受け取るときにも「汚れる」のかもしれない。

その汚れも、予測できちゃうからかな。


二人から三人になると、もうこれは大きな断絶がある。

これはすごい。

パス、パス、パス、で帰って来るわけですが、

贈ったものが、ぜんぜん違うものとして帰って来る。

「とりあえずいらないもの」をほいってあげると、しばらくして

へんてこりんなものになって帰って来る。

これが、おもしろい。


交換には「時間」が必要なんだね。

時間がないと、贈る、ということはありえない。

そんな面倒なことは、だれもしないからです。


余った為に贈ったんじゃなくって、贈る為に余らせた。

なぜか?

だから、「交換は楽しい」からだとも。

こういう循環のうちに、起源は解けてしまっている。

ぼくらは、気づいたら環の中に投げ込まれていた。


こういう事況のことを、ハイデガー先生は、

「被投性」と呼んだのです。

違うかなー。習ったのとは違うけど、たぶん、どこかで

合ってるんじゃないかと、ぼくは思うんです。

「わかんないけどそういうもんだよな」って、

そういうことってあるよね。


意味わかんないって?

そうそう、ぼくみたいに混乱した人が触れると、わけのわからない

ものになっちゃうんだよね。

おもしろいでしょ。

それが交換の楽しさってことそのものだね。


だから、うん?とか、ほえ?とか、とりあえず気になったら、

何か返せばいいんだと思う。

それが交換であり、コミュニケーションである、と。


うーん。書けているけど、書けていませんね。