ぼくらはギロンをしていない。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

まるすけさんのブログのほうで少しはなしをしていた。

まるすけさんはそれは時間の無駄かもしれないと言っていた

けれど、ぼくにはなんだか根源的な問題が見え隠れしている

ような気がする。だからもうすこしだけ考えたい。


ここではまるすけさんへの応答を書くけれど、それをとおして

「タイワ」ということを考えたいとおもう。


みなさんにはことの成り行きが見えないと思うけれども、

この場にぼくの意見をちょっと書きたいのでゆるしてほしい。

それはコメント欄よりもこちらのほうが書きやすいということと、

自分の意見について責任をとるのは、まあこっちのほうが

よかろうと思ったからだ。

岡目八目という言葉もある。ちょっと見物、という人にも、

反ってなにか大事なことを伝えることができるかもしれない。


きのうもまるすけさんのブログコメント欄に書いたけれど、

ぼくはいくらか混乱している。
よくわからないけれども、ならばそれこそ論点の整理は必要

だろう。


1-0ぼくとまるすけさんは「対話」や「議論」をしているのだろうか。


この問いに答える前に、確認することがある。

それは、ぼくが話していることと、まるすけさんが話していること

にはなにかしらの関係があるのだろうか、ということだ。

関係がないのだったら、もちろん「それ」は、対話でも議論でも

ありえないだろう。互いに関係がないのだから。


ぼくは関係がある、とおもった。

ここで、関係があるというのはどういうことか。

それは、今、その形式が問題になっているところの、今回のはなしの内容

つまり「日記ブログとtwitter」についてまるすけさんがはじめに書いたとき、

それはぼくに向ってかかれたものだろう、とぼくはおもった、ということだ。


たしかに、べつにとくに「ひょろくん、これはどういうことでしょうか。」と

書いてあったわけではない。

だから、あるいはぼくが「じかじょー(自意識過剰)」だっただけなのかも

しらん。


でも、ぼくが「それはぼくに向けて書かれたものだ」と感じるのも理がある、

と今もおもう。それにはふたつ理由がある。

ひとつは弱い理由。まるすけさんの語った「日記ブログとtwitter」のはなし、

このうちの、「日記ブログ」という問題を、ちょうどぼくがこないだ扱った

ところだったから。

まるすけさんの言うとおり、まるすけさんのブログはおそらく日記ブログでは

ない要素が強い。そこで、「ブログ」ではなく、特別「日記ブログ」を問題と

するのは、いくらか例外的な事態だろう。

そうすると、「日記ブログ」という話としてぼくの書いたものとまるすけさんの

書いたものをつなげて読んでしまうのは、仕方のないことではないかと

おもう。


ふたつめは些細であるけれども意外と強い理由。

「日記ブログとtwitter」というとき、その表記の誤りの問題だ。

「twitter」は、厳密に言えば「Twitter」だ。

「twitter」という間違え方が、どうしても気になる。

これもいくらか理があるだろう。


だから、ぼくらの話は関係があるのだと、ぼくは判断した。


ぼくはこのことについて、「念頭において返答していない」と書いたけれど、

あれは半分まちがい。ごめん、混乱させた。

必ずしもべつにぼくに向って書いていないかもな(じかじょーと思われたら

これは恥ずかしいわけで。)と思ったので、ある程度突き放して書いた、

ということです。


さて、だから、ぼくらは「対話」や「議論」をしているのか、という問いは

かなり微妙であるとおもいます。

だから、これは分けて考える。


1-1ぼくらは「議論」をしているか。

いいえ、していないとおもいます。

議論とはなにか、それはぼくはディベートだと思っています。

ディベートというのは、本当の自分の意見とは関係なく、ある立場を

代表して他の立場の代表と言葉を交わし、どちらが優れているかを決着

するものだ、とぼくは思っている。


だから、それが「議論」であるための必要条件として、話し合う人が

「異なる立場」でなければならない。


でもぼくたちは違うでしょう?

ぼくたちはどちらも「日記ブログとtwitterの違いがわからない人がわから

ない」と言う人批判の立場にたっている。

まるすけさんがその立場であるかどうかというのは、確認したとおりでした。


そして、たぶんここが「ずれ」の直接の原因のひとつだと思うのだけれど、

たぶんまるすけさんはぼくの立場を誤解している。ぼくは「日記ブログと

twitter」を比較した人間です。


「日記ブログの終焉」はその結果として書かれたもの。


さて、そして、ぼくは「議論については、ぼくにはよくわからない。ぼくが

したいのは対話であって、相手を打ち負かすことではないからです。」と

書きましたが、いまもやはり変わりません。


つぎに対話について考えたいと思います。

そこでは、「ずれ」や「時間の無駄」ということも考えたい。

長くなったので別立てにすることにします。


そのまえに、できればぼくについてあまり知らない人に読んでおいてほしい

エントリーがいくつかあります。「木曜日の夜、火星の井戸の底で。」という

テーマのはじめの方のエントリーを読んでください。


ぼくが議論ではなく対話へ、ということの意味についてです。

はっきり言って、そんなのは「どの口がいうんだ」と言われても仕方がない。

議論ということの不毛さを示したのは他でもなく、ぼくだったからです。


□あやまらなければならないこと

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10319880485.html


「木曜日の夜、火星の井戸の底で。」のはじめの方の、曰く「議論」に

おけるはなしでは、ぼくには「ことばを惜しむ」という態度が

根本的に欠けていた。

ここで謝られていないことがまだあるようにおもいます。

というか、ぼくは「ある部分を謝る」ことでチャラにしようとしただけかも

しれない。


評価はみなさんにおまかせするとして、ぼくは「謝る」とは別の仕方で

ぼくの「ことば」を受けた人みんなに償う必要があると思います。

そして、それは「語る」こと以外にありえない。


ぼくはそう思います。じゃあ、また続きを書きます。