デカルトによれば、あらゆる物事を疑っていったとき、
それでも尚疑いえないものとして「(私には)~というふうに
思われること」が残るのだった。
「思われること」という現象は、「思うもの」と「思われるもの」によって
構成される。
疑いえないものとして、「思うこと」は本当に妥当か、とぼくたちが
考えるとき、次に吟味すべきは「思うもの」と「思われるもの」の確かさ
である。ぼくはまず思うものについて考える。
そのとき、はじめの方の(ぼくが考えようとしていた方の)思うものは
思われるものの位置に移動し、思うものの位置には、また新たに別の
思うものが到来する。では、更に今到来した思うものについて考えると
どうか。
さらにまた新たに得体の知れない思うものが現れてくることになる。
ぼくたちは思うものについて、考えることができない。
考えようとすると、思うものはどんどん逃げていく。それを追っていくと
同じところをぐるぐるとまわって、やがてはバターになって溶けてしまう。
それは、ある/ないの素朴で暴力的な二項対立に回収されない地平線
として、そこにあるのだ。
思うものは思うことの動作主体とは一致しない。
「我思うゆえに我あり」の「我」とは、ぼくやきみのことではない。
ぜんぜんそんなことじゃない。動作主体としてのぼくの実存なんて、
誰もぜんぜん保証してくれはしないのだ。
存在とは、底抜けで寄る辺のない、余りにもはかないものなのである。