よんでうってくってねるひび | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こにゃにゃちわ。ひょろです。


お酒は呑めないし、マージャンもやらない。

キーを叩く、の、うつ、ね。


只管読書、しああせな日々です。


*


さっき足でなにかの線を引っこ抜いて、パソコンが

ぷつん!といっちゃったんだよね。


これはあんまりよくなさそうね。


*

「あなたは誰か。」はね、ボクにとっては、

けっこう大事なエントリです。


このエントリによって、ボクなりの存在論、というか決断主義?が

「知っているそれ自体にはもはや価値はない」に接続されるから。


「“Time is Money”は間違っている」とかはね、あれは結局、

ハイデガーの受け売りだよね。

ボクが何かもっともらしいこと(そうでもないけども)を言っている

ときは恐らくほとんど全部人の話だね。


いや、ハイデガーが何を言ってるかなんてろくにわかっていないし、

『存在と時間』も読んでいないんだけどね。

でも、ま、ハイデガーだけは、彼の場合は彼自身が「伝達すべき

なにものももたない」と言うから、それはある意味では当然だ。


ラカンの著作においてはおびただしい数の誤読しかないけれど、

ハイデガーにおいてはそもそも読解というものが一切ありえない。

彼はただ、黙っている。そこで語るのはハイデガーではなく、

むしろ僕らのほうだろう。


んで、「あなたは誰か。」ではついに一人称「ボク」解禁だ。


レトリックに頼っては足腰が弱るから禁欲的にふるまってきたつもりだけど、

それももう攪乱していいかもしれない。


ボクはかぁいいおにゃのこにゃんだにゃー、みたいにゃ。


ん、で、さすがに気づいたと思うけど、「あなたは誰か。」では

一人称の「僕」「ぼく」「ボク」はそれぞれ使い分けられている、たぶん。


最初の「僕」は、影の比喩と共に使われ、(洞窟のイドラ。)

くらっと立ちくらみ、と共に廃棄される。

「僕」という記号では捉えられない現象としての「ぼく」が意識される。


ベタ、メタ、とくると、先例をふまえて、「メタ」もまた超越される対象

としてみなされて、メタメタ、メタメタメタ、メタメタメタメタ…と無限後退

していくことになる。


っつーのが「自己言及の困難」だったね。そろそろあきたね。


めんどくさいにゃー、ねむいにゃー、もうおしまいにするにゃー。



・「知っている」それ自体にはもはや価値はなぁいっ!!

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080922

byベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

なぜならば、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに

学び知ることができる」から。


「あなたは誰か。」

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10429462323.html

夜に出会うところで

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10427310042.html

Lead me to your door.

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10427258929.html

“Time is Money”は間違っている

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10426385748.html