1:理想の時代(45~73) 日常から非日常へ
「12歳の少年」、みんなの夢。
終戦と復興、戦後民主主義、科学主義、高度経済成長
政治の季節、安保闘争、全共闘運動、ビートルズ
・近景(=日常)
戦後の焼け野原
・中景(=現実化作用)
満員電車、マイホーム、3C
・遠景(=理想、非日常)
「人類の進歩と調和」(EXPO'70)
『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、『ウルトラマン』
2:虚構の時代(74~95) 日常と非日常の分断
理想(非日常)の多様化に伴う現実化作用(=中景)の停止(脱落)
2-1:クソッタレ80's 近景から遠景への短絡
・近景(=日常)
ファッション化する記号的日常。『なんとなくクリスタル』
『Pink(岡崎京子)』、ニューアカブーム、池袋西武セゾン
・中景(=現実化作用)
×
遠景(=理想、非日常)
「私探し」「ここではないどこか、本当の私、もっと華やかな私」
「ほしいものが、ほしいわ。」、アイデンティティというフィクション
トレンディドラマ(ぜんぜん違うかも)、ジュリアナ東京(90年代だけど)
2-2:セカイ系 遠景から近景への短絡
・近景(=日常)
×
・中景(=現実化作用)
×
・遠景(=理想、非日常)
「「僕」と「君」、セカイの危機。」
『ほしのこえ』、オウム真理教
3:「現実」の時代(95~09?) 日常への回帰
分断された日常と非日常のうち、非日常を眺め続けているわけには
いかなくなった。
地下鉄サリン事件や『新世紀エヴァンゲリオン』を踏まえて、
「セカイ系」や「私探し」の不可能性が明かされる。
非日常を実際に現実化しようとすると、齟齬が生じる。
3-1:決断主義
日常は一つの非日常である。日常をどの非日常に設定するかは
競争によって決定されるべきである。
現今の日常というのは、当面のゲーム(ルールとフィクション)に
過ぎない。勝った人間が「現実世界」をデザインできる。
全ては自分の信仰に基づく選択の連鎖によって導かれる。
選択は自由だが、その帰結の責任は自ら負わなければならない。
・近景(=日常)
サヴァイバルゲーム、勝てば官軍、弱肉強食
グローバリゼーション、規制緩和、小さな政府、自己責任、
構造改革、負け組、就職と結婚
『DEATH NOTE』、『野ブタ。をプロデュース』
・中景(=現実化作用)
×
・遠景(=理想、非日常)
人それぞれ、「私の信じる正義に一点の曇りなく殉じてきた」
3-2:日常系(空気系)、あるいは「動物の時代」
決断主義は共同体を解体し、「人間」を消滅させてしまう。
どれか一つの非日常を日常とする必要はない。
物語は無用である。
日常は透明なアーキテクチャであり、人々はデータベースを
共有し充実させ、好きに引用してよい。
日常こそが全てである。
・近景(=日常)
記号的日常には終わりがない。
『らき☆すた』、『けいおん!』、スーパーフラット
・中景(=現実化作用)
×
・遠景(=理想、非日常)
×物語は存在しない
実は日常系は、クソッタレ80'sの系譜に位置する。
エヴァンゲリオンに応答していないのである。
オタクにはアスカの「キモチワルイ」が耐えられなかった為に、
セカイ系ごと切り捨てたと考えた方がいい。
画面からはシンジが消え、美少女だけが残った。
4:失恋の時代(10?~) 再び、非日常という日常へ
諸価値の対立関係の下、「他者との共存=僕らの物語」は
尚もありうるか?
いい?こういう、「戦後史」自体、一個の偽史だよ。
フェイク、うそ。
全ては「終戦の日8月15日」から始まったんだと思う。
戦後世代が知らないはずのその日を、敗戦の日ではなく、
終戦の日と呼ぶことによって。
別にそれでも構わないんだけど、(本当に戦後の復興を牽引した
明治生まれの人たちは、次の世代がそういう偽史を選択して
しまっても「戦後民主主義」を望んだろうから。)「敗北の物語」を
捨てる代わりに社会(日常)からリアリティが失なわれていくことに
なった。
僕は、「失恋の物語」をまなざしたほうがいいと思う。
というか、止められても、勝手にそうするし、他の人にも
そうすることを求める。
そうしないと「意味」が消滅してしまうからね。
保守も革新も認めた方がいいよ。
僕らは負けたんだ。どんなに正しくて、強くて、ハンサムで
やさしくて、彼女のことを想っていたのだとしても、
結局のところ、彼女は彼を選んだのだから。
一度目を覚まして、それから眠りにつこう。
それでも、世界は続いていく。僕はそう信じる。