01:全てがあって、何もない世界。
未分割な卵。
僕もいない。君もいない。記号が一切ない。
「ある」がなく、「ない」がない。
02:世界への最初の一撃。君との出会い。
…は、思わず、「君」に、声を投げかける。
言葉は、君に届く。君はこちらを、振り返る。
言葉の発信源として、「僕」が発生する。
君は僕を見る。僕は、君に声を投げかけていた。
03:真に語ろうとしていたことは存在しない。既に
語られてしまったことだけが存在する。
僕は、僕にとって、解けない問いとしてだけ、認識される。
僕は僕が本当は何を望んでいるのか、なんてことはわからない。
僕にわかる、僕のことは、僕が表現したものだけ。
僕も、他の多くの読者と同じく、一人の読者でしかない。
「筆者」などという表現についての知的権威の特権的ポジションは
存在しない。
したがって、僕について語るとき、僕と君とは、権利的に、
同等な立場にいることになる。
04:表現はいつも遅れてやってくる。逃げていく「僕」という謎。
「僕」は、表現されたものの内からしか取り出せないものだ。
けれど、表現という奴はいつも出遅れる。
僕というものは、ずっと揺れ動いている。ある時点で表現によって
切断された僕は、表現された瞬間に、既に変化してしまっている。
表現された瞬間、僕は、切断された不完全なレプリカと、やはり
不明なままの「現在の僕」とに、引き裂かれる。
「現在の僕」というものは、決して記述されない。
「僕」は表現を通してしか認識されない、というのは致命的なこと。
パロールについて。
声は、一瞬で過ぎ去る。僕は、同じ発話表現を二度と繰り返せない。
音量、アクセント、震え方、湿り気、破裂、強度…。
僕もまた、一人の聴衆として、たった一度の声を聞く。
しかも、声はそれを発する当人たる僕の下からこそ、最も遠くに
隠されている。僕の前で、声にまとわりつくノイズが最大になる。
くぐもった声は、オリジナルの情報を損なう。
僕は、大きな誤解をしている。僕は自分の声を間違って認識している。
声はいつも、失われたメッセージ、その不在が示されるばかりだ。
表現者を含めたすべての人にとって、失われた、一回性の
他者として、パロールはある。
エクリチュールについて。
牛乳パックに「おいしい牛乳」と書いてあっても、十年ほど日当たりの
いいところに置いておけば、その記述は嘘になってる可能性が高い。
記述された表現は、時間が経つと嘘に近づく。
僕は、少し前の僕についての表現を通して、現在の僕と、ちょっと違う
僕の意思を知る。だから、僕は、僕自身の表現に対して、全面的には
コミットできない。
05:人格と表現は切り離して考えよう。
「僕が今言いたいところのもの」と、「語られてしまったこと」とは
一致しない。
この、「ちょっとずれてるところの奴や!」っていう感覚を認めることは、
人間を聡明にする。この問題に対して、僕が提案するソリューションは、
人格と表現は切り離して考えようということ。
確かに、僕というものは、僕の表現の後に、発生する。
僕の表現が素朴で明朗なとき、読者には、「君の言いたいことはわかった。
もう、うんざりだ。君がどういう人間か、こうも簡単にわかってしまった。」と
言われるかもしれない。
でも、表現がいつも遅れてやってくるものであったから、僕は僕の表現に
還元できない。もしも、僕が汲み尽くせない表現の泉、ある種のかけがえの
なさのようなものを持つことがあるとしたら、それは、恐らくこれに由来する
ものだ。
だから、「僕」は解けない問いなのだ。