僕たちは、物事を、ある特定のパースペクティブからしか
見つめることができない。
単純な「所与」なんて存在しないんだ。
例えば、日本の国旗、日の丸を思い浮かべて欲しいのだけれど、
赤い丸は、白い「地」のうえに、ひとつの「図」として、
浮かび上がって見える。
そこに、図と地の別、意味が、分泌されてしまっていて、
僕たちにはそれを中断することはできない。
「物事」というのは、世界に現出している物事、つまり、
世界の任意の点Xを占める、物理的現象としての「物事」だ。
そして、観察者たる僕たちもまた、世界内のある空間を占めている*01。
そうすると、僕たちは、僕と物事の間に発生する、僕の点と物事の点との
関係性、それが置かれる「布置」と、それに付随する意味からは、
免れない。
また、布置の重力からは、時空を超えたところに神の視座を措定した
としても、逃げられない。
なぜならば、布置の重力には、そこに、物事の存在を見た瞬間に、
捉えられちゃうわけだから。
以上から、「見る」という行為は、どうしたって、パースペクティブに
よる価値判断から自由になれないことがわかる。
でも、まだ、トリッキーな裏技が残されていたりする。
「見たらダメだ」と言うのならば、見なければいい。
ここから先は難しくなる。
じゃ、質問。
「誰もいないところで倒れた木は、音を立てるか?」
Yesなら、君は実在論者。
Noなら、君は反実在論者。
実在論をとれば、客観的事実が実在する余地が残る。
反実在論をとるなら、その事実は「蓋然的に正しい」とまでしか
言えないことになる。
わかんなかったとしても僕は面倒を見ないのであしからず。
僕も自分のことで手一杯だよ。難しくて。
さて、僕は反実在論をとるので、客観的事実の実在なんて、
ぜんぜん、認められません。
*01:位置の原理。
『はじめのエチカ』のⅰ参照。
□はじめのエチカ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10336919669.html