すべての表現は主張であり、潜在的に論拠と情報が付随する | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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 文章の意味というのはその真理値、つまり「命題」であると

考えられたけれど、同時にその文章は、その内在する命題が

真であることについての信念の表明でもあったね*01


表現は、常に誰かに聞き届けられるためにある*02、つまり、

表現は常に一つの主張である。


 主張の本質は、それが他者に向うこと、他者に受け入れられる

ことを求める点にある。他者に受け入れられるためには、その人を

納得させなければならないわけで、そのために自らの蓋然的*03

正しさをアピールする必要がある。

したがって、主張には潜在的に論拠*04と(状況についての)情報が

付随することになる。


 これは、アリストテレスの三段論法を当てはめるとわかりやすい。


大前提(=論拠)…「猫はかわいい」

小前提(=情報)…「タマは猫だ」

結論(=主張)…「タマはかわいい」


主張の正しさは、二つの前提の正しさと、演繹*05の正しさが

そろえば、十分に示される。


主張が間違っている場合をそれぞれ考えよう。


01:論拠が間違っているとき。

例…「猫はかわいくない」

猫はかわいいので大前提の間違い。


02:情報が間違っているとき

例…「ポチは猫だ」

ポチは犬だから小前提の間違い。


03:演繹が間違っているとき

大前提(=論拠)…「猫はかわいい」

小前提(=情報)…「ポチは犬だ」

結論(=主張)…「ポチはかわいい」

「ポチがかわいい」のは正しいことなのだけれど、

演繹的には、ポチがかわいいことを十分に説明できていない。


これらから、主張が正しいことが先にわかっていても、説明がうまく

できていなくて、間違い、とされることがあるのがわかる。


表現者は、表現(主張)の正しさを保証するために、

論拠と情報を提示する。

つまり、限定された「論拠と情報」の外の話については、

表現者の責任は発生しない。


*01:『どーすかΩのコミュニケーション論』ⅱの01)を参照のこと。

□どーすかΩのコミュニケーション論

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10324738111.html


*02:どういうことかっていうと、次の記事参照。

□表現は、常に誰かに聞き届けられるための表現である

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10326169821.html


*03:たぶん、大体において。

*04:よりどころ、議論の根拠。

*05:規則にしたがって、パズルのように一定の操作を加える。

帰納法と違って、得られた結論は必然的に正しい。