ⅰ.位置の原理*01
ある存在は他の存在ではない、ということであり、全ての存在が
その存立条件として、他者的な空間との共存を必要とするのは、
「「である」という「する」こと」*02 で考えたとおりだ。物理現実に
おいて、存在するとは、当たり前だけれど、ある空間に、物理的に
存在するということだ。ある存在はある時間に、ある空間、ある位置を
占めており、その当の存在がその位置を占めているのであれば、
そこには他の存在がないということである。
全ての存在が他者的な空間の存在を必要とするのだったから、
世界には、少なくとも、互いに重ならない二点に位置する、二つの
存在が生じているということになる。
ある人間をつくりあげるのは、その人が親からもらった遺伝情報と、
その人が育った環境で全部だ、としよう。では、今後、科学がずっと
発展していって、100%同じ遺伝子と、同じ環境を与えられるのであれば、
性質的に全く同じ人間、同じ存在である二人の人間をつくることが
できるだろうか?
ノー、できない。実は、原理的に不可能なのである。
なぜならば、二人の人間が、別の位置に立っているからだ*03 。
別の位置に立っているのであれば、二人にとっては、互いに相手が、
自己に対する他者として、立ち現れる。そして、もしも、二人が同じ位置に
立っているのだとすれば、そこには個数的に一人しかいないことになる。
というか、僕にはそこに一人の存在しか見ることが出来ない*04 。
二人には、似ているところがたくさんあるだろうと思われる。しかし、
たった一点だけ、絶対に解消できない差異がある。二人は、違う位置に
立っている。
ⅱ.無知者の限界、あるいは他者の現れ。
この世界の全てを知ることが不可能なとき、全ての行為者の
「私こそが公平なキャッチャーだ」という宣言には、必ず誤謬が
含まれる。
彼/彼女のもつ世界についての有限な知は、彼/彼女の
眼を曇らせる。位置の原理から、そこには絶対に避けられない、
知りえないことの壁が存在する。
彼/彼女は正に、行為を思い立つ源泉であるところの、自らの位置
についての知から、バイアスのかかった、限定的な少数者の利益に
資するような、アンフェアな行為だけしか選びようがない。
そのような事態に直面するとき、公平なキャッチャーを騙る卑怯な
道化は、知りえない意味不明な存在、いつものように値踏みし、代替可能な
「部分」に還元できない存在、すなわち他者の顔に目を向けざるを得ない。
他者の顔からの、抗いようのない問いに向き合わざるを得ない。
その意味不明な肯定は、向き合う私が決して到達できない余剰の場所、
近づくたびに無限に後退するような、絶対に踏み込めない地平線のほんの
少し向こう側にあるからこそ、<私>はそこに他者の顔を見る。
ⅲ.全知の不可能性、無知の不可知性。
「知る」とは「得る」ということであり、「得る」とき、そこに我々は所有者の
標示によって空白を「埋め」、同時に、そこに他の存在が入り込む余地を
「失う」。とすると、全知者の存在のあるところに空白はない。だがしかし、
我々はそこに全知者の身を横たえるを「見る」だろうか?果たしてそこに
全知者は「いる」のだろうか?
「「である」という「する」こと」で考えたように、ある存在とは、「その存在
ではない存在の全体」=「世界」でないところ、世界の外として立ち現れて
くるのだった。
では、全知者はどうだろう。全てを知る者は、全てを統べ、全てを占める。
全てを埋め尽くす究極的に不寛容な存在は、全てを覆った瞬間、正に
そのとき既に存在していない。全知者には、絶対に手に入れられないもの
がある。全知者の知らないものは、「無知」である。
全知者は無知を知らない。彼/彼女は、いや、彼であり、彼女である
あなたは、僕を知らない。あなたは、僕ではない!このとき、僕こそが
世界そのものであるあなたと、最も疎遠な、絶対的異邦人である*05 。
ⅳ.はじめのエチカ
最も原的なエチカ、つまり、およそ考えられうるあらゆる境界を越えて
普遍的に受け入れられるような、生の分かち合いの始まりは、
それを求める者を孤立させる*06 。
だが僕たちは知っている。この遠ざけ、この異化は、悦ばしき存在に
対する世界からの祝福の声である*07 。
僕たちはこのように、世界からの、生の大肯定を受ける。
他者の顔に対する抗えない応答を通して始まったエチカは、正に、
単独者の利己心から利他性を引き出す。ここに、正しき生が始まる。
*01 :ⅰだけは、だいぶ前に書いた文章なので、僕の考えの枠組み
自体が無意識裡に、だいぶ変化しているかもしれない。でも、文体以外は
一応、繋げて読むことはできるだろう。表現はオマケみたいなもので、大事
なのは、僕が、あるいは僕のGhostが言わんとしている何か、の方で
あって、それに耳を傾けようとするとき、僕も君も、全く同じ土俵に
上がっている。
*02 :「「である」という「する」こと」
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10290589757.html
この文章は、丸山眞男の、「「である」ことと「する」こと」という評論、に
ついて、大澤真幸が書いた評論を読んで、雰囲気に当てられて書いた
もの。「「である」ことと「する」こと」はそのうち読みたいと思うけど、
この文章に関して言えば、あんまり、いやほぼ関係がないと言っていい。
*03 :だから、厳密に言えば、二人に与えられた環境は違っている。
*04 :多重人格だとか、あるいは、一つの人格が複数の身体を持っている
ケースについて、ここでは考えられていない。ヘタレ哲学である。
*05 :僕はこれを、アブラハム的転回と呼びたい。別に僕は預言者ではない
けれどね。
*06 :正義の反大衆的性格。したがって、エチカの担い手はまず、単独の
存在として成立していなければならない。オルテガ・イ・ガセットは少数者
集団の基本的な性格として、そもそも「少数である」ということの内に、
反大衆的性格が内包されていることを指摘した(大衆の反逆)。
同様に考えて、まず、個たろうとする人間は、高程度に「反大衆的性格」を
表すだろう。つまり、特定個人ではなくて他者一般に向き合い、その
呼びかけに応じようとするならば、高貴なる反大衆的単独者という性格
から、その人の意志の格率が規定される。
*07 :この文章の原稿を記したノートの欄外には、「レヴィナスのスピノザ
っぽいアレンジ?」とある。ちなみに僕は、「信仰」について、「正義の存立
にはこの世界がリアル・リアリティでなければならないが、それは説明不能
である。したがって、(仮構の)リアル・リアリティを機能させるための、
<魂>概念の導入が必要である」という風に考えている。
参考
□子どもたちはかげふみのようなことをして
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10278641176.html
□草稿A
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10304579413.html