この世界がリアル・リアリティだということを証明する術はない。
しかしこの世界がリアル・リアリティでなければ、僕たちは
不正義を止めることが出来ない。
なぜならば、僕たちが夢の中で、どんなことをしても、
夢が覚めたあとに、その行為の責任を追及されることがないように、
もしこの世界が夢なのであれば、人々は自分の行為について、
責任が自身に帰属するなんて思いもよらないであろうから。
このことは、内心の自由と表現の自由との違いを考えることで、
そこで問われるべき問題がいよいよ明らかになる。
「内心=夢の中」の水準では、どんな行為でも許されるが、
「表現=物理現実」の水準では、行為について、手放しの自由
というわけにはいかない。二つを分かつものは何か。
それは、物理的行為の他行可能性に対する不寛容さである。
表現の自由に紐がつくのは、その自由は、他者にも認められ
なければならないからだ。
自己の自由と他者の自由とのせめぎあいの中で、正義の
第一原理が約束される。
正義の二原理とは、フェアネスとディセンシーである。
フェアネスは、実際的に、様々な社会システムを構築する上で
あらゆる原理に先立つ原理として措定されなければならない。
なぜならば、全ての存在が自らの行為について、責任を引き
受ける自由な主体として認められていなければ、そうでない存在に
よって、対話を拒絶されてしまい、当の社会システム自体の
正当性が大きく揺らぐことになるからである。
ディセンシーとは何か。また、フェアネスの他にディセンシーが
必要なのはなぜか。(このエントリには答えが書いてないです)
それは、自由の本質観取から導くことができる。
自由は、要素に還元していくと反って失われてしまうものなのでは
ないだろうか。
たとえば、ある人が一冊の本を買ったとする。
どうして、その人はその本を買ったのか。その本が欲しかったからだ。
その本をどうして欲しくなったのか。それは実は、誰か他の人に
紹介されたからかもしれないし、店頭でPOPを見て衝動的に欲しくなった
からかもしれないし、以前読んだ同じ著者の別の本が面白かったから
かもしれない。
しかし、どんな理由があったからといっても、それは必ず外からの影響に
よるものであるはずだ。
ここで問題になる自由とは、彼/彼女の物理現実の水準における、物理的
行為についての自由であったが、人間をして行為せしめる動因としての
欲望(不動の善か?)は、常に外部から与えられるものである。
こうしてみると、行為とは、その構成要素に分解すると、どこにも「私」の
独立した選択が存在しないかのようだ。
けれども、ここで少し立ち止まって考えてみる必要がある。
行為が他者から与えられた欲望(不動の善?)によるもので、自由な意思
が存在する余地が全くないという論にはやはり違和を感じる。では、
「自由な意思の余地を残す」ということを別の言葉で置き換えてみよう。
外から与えられた他者的な欲望が、当事者たる私にとって、それが他でも
なく私の欲望だと引き受けることになる契機とはどんなものか。
僕たち各々にとっての、納得の契機とは何か。
(「選択」はあるか?)