草稿A | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

正義とは、公共善を追求し、自由を守る行い、

そしてその主体のことであると定義する。


ⅰ.正義の行為について。

ある行いが正義であるかどうかを判定するには、

それをモニタリングし、何らかの正義の価値準則に

照らし合わせて価値判断を行う必要がある。


「正義の判定」は、三つの変数が含まれるので、そこに

代入する値の組み合わせにより複数の形態が考えられる。


1.どのようにモニタリングするか

2.誰が判断するか

3.どんな準則を採用するか


2と3との間には相関関係があるかと思われるが、

3正義の条件を完全に数値化した価値準則でなければ、

2それを人間が判断するなら個人の主観が入り込んでしまう。


また、その問題をクリアしても尚、まだ問題が残る。

どのように数値化するかという、「情報化」の過程の取捨選択の

場面で主観が介在する。これを徹底しようとすると、

「「どのように数値化するか」という判断を下す際の準則の条件を、

どのように数値化するか」という判断を……と、無限後退に陥る。


したがって、ある行いが正義として妥当するか、という問いに対する

答えは常に暫定的なものとして扱われる必要がある。


また、経験的に言って、2判断する人数を増やしていき、最終的に

全ての人類にまでいったところで、ネガティブ・コンセンサス方式を

採用すると意思決定はなされないだろう。つまり、あらゆる議題に

ついて、必ず反対者が少なくとも一人は出るのである。このことは

大抵の人に同意してもらえるだろうと思う。


(真理の不可能性と位置の問題参照のこと)


2-0正義の存在について。

個人が正義であるかどうか判断するには、その人間の全ての行為

が正義の行動として妥当するのであれば、全ての人が彼/彼女を

正義の存在として認めるだろう。


しかし、正義の行為の判定が暫定的なものでしかないもので

ある、つまり、判定は長期的に見たときに誤りであることがありうる

にもかかわらず、個人が一つの行為について、ある時点における

正義の判定によって不正義であると断じられてしまうと、彼/彼女は

正義の判定自体が覆されない限り、以降ずっと不正義な人間となり、

挽回が許されない。


そういう状況下に置かれた人間は、もう正義を尊重しようと考えなくなり、

より重大な不正義の行為を為してしまい、正義の判定のパラダイムシフト

がおきても、やはり不正義な存在のままとなってしまうだろう。

(逸脱の増幅)


失敗を一切許容しない無菌社会は、かえって不正義を増長させてしまう

のである。正義からの逸脱者をある程度許容し、彼らの尊厳を守ることも

また、正義にとって必要不可欠である。


しかし、どの程度まで不正義を許すのかという価値も、流動的なもの

である。


3-0正義の存立条件、魂の原理。


4-0道徳律の不可能性と、内的倫理格率の幸福論


道徳律によっては正義の存立は不可能であり、個別の内的倫理格率

からのボトムアップだけが公的な正義の価値準則になりうることを示す。


4-1幸福の条件


人間存在の本質観取から、個人の幸福は、彼/彼女の欲望が満たされる

ことによってのみもたらされると考える。

ここで語られる欲望という言葉はとても広い意味範囲を持つ。

そこには、「他者が幸せになる欲望」、「世界が平和になることの欲望」さえ

含まれている。


また、人間はもっている情報の限りで自らの欲望が満たされる可能性が

最大になるように自らの行為を選択するような合理的な性格を有している。


しかし注意すべきは、多くの人間は自らの欲望について、それが表れる

まではほとんど何も知らないことである。

欲望は当人にとっても、強い他者性を帯びた不可解な現象であり、ときに

不条理でさえある。



4-2欲望に貴賎なし


全ての欲望には、それ自体としては上下の別がない。

つまり、「他人を殺したい欲望」も、「他人に親切にしたい欲望」も、

それ自体としては全く等価である。


しかし、それは欲望相互の他行為可能性許容度の位相において、

公共的な性格を持つものと、自己中心的な性格のものとに

分類ができる。

たとえば、「他人を殺したい欲望」は他の多くの欲望の実現可能性を

否定する。