はろ、はろ、はろろ~んえぶりばでぃ。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

お返事。ちょっと脊髄で反応してるかもかも。許せ。

えびへ。

「読みにくい文章なら読まなければいい」
それは一理ある。


「一応言っておくと一般人一人が読みにくいと感じた文章は

1万人が読んでも読みにくいということに他ならないからね」


命題?:「一般人一人が読みにくいと感じた文章は

1万人が読んでも読みにくい」

反例:二人の人間が同じ文章を読み、同時に感想を言うこと

にした。一方は、「この文章は読みにくい」と言い、他方は「この

文章は読みやすい」と言った。


これはいい?よくない、うん。なるほど。

例えば、二人が読んだ「文章」が、専門用語に満ち溢れている

ものであり、片方はその専門の研究者、片方は素人であるとき。

例えば、どんな文章でもよく、片方は当の執筆者、片方は誰でも。

例えば、速記の文章、片方は専門家、片方は素人。


ただし、命題にもう少し厳しい条件付けをして、限定したら、

もちろん正しくなるケースもあるだろう。

例えば、この一万人が、同一人物である場合。

訪問型のアンケートならば確かにありえないけど、無記名とか、

ネットのアンケートならその可能性も、現実的にありうる。

他のケースもあるかもしれないけど、別に僕にとってはこの項を

充実させることに全然魅力を感じないのでパス。


ここでいう二人にとっての「読みやすさ」とは、一体どこから来る

のか。どうして読みにくいのか。厳密なところはこの後関連エントリ

書くから、そこで恐らく納得してくれるんじゃないかな。

だめなら、またその周辺のことを書こう。


で。とりあえず僕が今ここで言いたいのは、そんなことは

全然ないってこと。それから、少しだけ救いのようなものを感じるのは

「読みにくい」は「読めない」ではないってこと。

二つはまるで違う。そのうち、「読者はどこまで、読みにくい文章を

読もうとする努力をしなければならないのか」を考えるべきか。

(命題にはてながついてるのは語一つ一つを定義してないから、

正確には「命題のようなもの」。)



「あとこちらの言わんとすることを全く理解していないのは

お互い様だから」


この部分については、僕は三回ノーと言わなくちゃいけない。


まず、第一に、言わんとすることを全く「理解」していない相手に

「あとこちらの言わんとすることを全く理解していないのは

お互い様だから」と言わんとしても全く無効だろう。

脱構築おわり。


第二に、僕がこの文章自体を「理解」していたとして、

僕とえびが互いに、「言わんとすることを全く理解していない」のは

独立した問題だと思う。いや、各々のコミュニケーションが独立して

考えられないということは了解するが、この問題の対処はそれぞれ

別の機会に施されなければならないと考える。僕が理解していない

こととえびが理解していないことは別々に解決されるべき。

くどいが、「別々に」解決されるべき、別々に「解決」されるべき。

僕が理解していなく、そしてえびが理解してないから、はい相殺、

とは、ならないということだ。

これを説明するためには、コミュニケーションの根本的な性格を

考える必要があると思うが、まだ考え中。


第三に、僕がこの文章自体を「理解」していたとして、そして、

互いが「言わんとすることを全く理解していない」ことが、「相殺」される

ような事柄だとしても、今は「お互い様」にはならない。

なぜならば、僕はそういう「理解」を他者に望まないからだ。

(だから、そういう意味では、今えびだけが「損」をしていることになる。)

なぜ望まないかということは、とりあえず問いだけ出しとく。


「私たちが分かり合えるの(は)文字としての言葉(を介したとき)

だけで詰まるところそれはメディア(によって)でしかないんだよ」


カッコ内は僕が勝手に足しました。違ったら言ってね。


ほとんどイエス、ちょっとノー。「文字としての」は余分だろう。

音声によってもわかりあうことは可能だと思うし、

身体的コミュニケーションによる意思疎通もある(握手だぞっ☆)。

もっとも、それもまた言葉であるという部分は正しいんだけどね。


で、この、「ささやかなニヒリズムの感覚」はとても共感する。

僕らは言語を介することなくして分かり合うことはない、あるいは、

分かり合えたような気になることもできない。

「子どもたちはかげふみのようなことをして」での<つるつるとしたモノ>

は少なくともそのことではあったかと思う。

「「それ」を通して、」僕は情報を呑んでいたり、「それは入力の履歴の

リストであるだけでなく、出力の履歴のリストでもある」、のだから、

それをメディアと呼ぶことは、おかしくないんじゃない?


「つるつるとしたもの」は加藤典洋のエッセイ「背中の効用」に出てきた

言葉を僕が格闘してる途中で、最初は確か、「僕はつるつるとしたものが

我慢できない」だったかな、否定的に評価したと思うけど、今は、割と

共に生きようみたいな、ジブリやっぱ好っきゃねん、でさ~「ニノ国」

みた~?みたいな。原稿残ってないか探してみるけど。


ちなみに「背中の効用」は平凡社ライブラリーの『「天皇崩御」の図像学』に

入っていて、『ニノ国』はレベルファイブが開発中のゲームタイトルで、

作中のアニメーションを全部スタジオジブリが担当、ミュージックは久石譲

というすさまじい感じになってる。で、注目してるのねん。


□二ノ国|株式会社レベルファイブ

http://www.level5.co.jp/products/ninokuni/index.html



marusukeへ。

しばらく考えたけれども、やっぱり、大口叩いたくせに僕が間違ってる

かもしれない。と、いうのは、僕は、あるいは、願わくば僕らは、

対立関係ではなく、第三者の、傍観者の位置に立つべきではないか。

そんなふうに考えているからだ。

僕が噛み付こうとしたのは、発言内容ではなく「手続き上の問題」、

発言の構造について、だったけれど、それと同じことが、僕がそれを

指摘しようとすると生じてしまう。もしかしたら、ここにこそブログ・コミュ

ニケーション、もしかしたらコミュニケーション全体の限界が立ち現れて

いるのではないか。何かがつかめそうな気がする。

そういう意味で、「食う」という言葉を建設的な方向に拡張修正したら、

前に進めるんじゃないかな、と思ってる。

ちょっとまだガス雲みたいに、もやもやしてるけど、あの言葉をもう一度

いじるときには、必ず何らかのアクションは起こす。

そこは、僕を信用してもらっていい。それは責任取る。


コメントは全てのエントリにおいて常時受付中。うん。