marusukeさんへ
まず、このブログが流動的で、僕が可謬的だという
ことを認めるとは、どういうことか。それは、少なくとも
僕が、このブログが高い可塑性をもつことを志向すると
いうことです。
僕は決して、「理想的な観察者」じゃない。まだまだ発達過程、
僕の脳がまだ硬化し始めていないことを祈ってるけど、未熟な
人間だと思ってる。(実際、今僕が抱えている問題の大部分は
僕の無知が原因となっているようだ)だから、初心者マークを
掲げることは、リスクマネージの観点から言っても僕としては
当然執るべき戦略のように思えるけど。それを卑怯だと非難する
のはわかるけれども、そういう正義を称揚するのなら、pさんにも
それを伝えなくちゃいけないし、僕は、嘘を吐くよりかはマシだと
思ったから「わからないことはわからないままに考えるよう意識
してる」と言ったし、そうしてるつもりだ。
一方で、可塑性、公共性を志向し、かつ僕は「誠実であると
いうこと」でresponsibility、応答責任を手放さないと明言してる
わけで、本当に僕の思考に影響を与えようと思ったら、アプローチ
次第で現状でも十分に可能だと、僕には思える。
この点は、これから先も、極めて重要なポイントになるから、
もし、このブログの今のままでは、読者が僕に何らかの
メッセージを伝達しようとする際に、(僕が改善可能な)構造的な
問題があり、そしてそれを僕が気づいていないようならば、
ぜひ教えて欲しい。
それから、僕が何度か書いた、<魂>を信仰するってどういう
ことかわかる?あれは、なんていうんだろうな、絶対的な悲劇に
ついての信念というか、ニヒリズムの結晶であって、僕は
「or should I ?」とかあの辺の絶望から、決して抜け出したわけ
じゃない。そういうどうしようもない、宇宙規模の諦めを、むしろ
要石に置くことで、僕は袋小路を抜け出そうとしたんだ。
だから、それを「世界への<最初の>一撃」としている。
そういうどうしようもなさをまなざそうとしない全ての言説は、
インチキでしかないと考えているから。
だからこそ、僕は「真理」にもたれかからないようにして、
可塑性を志向すると言っている。
次、僕の思考に、より大きな影響を与えうる「建設的なコメント」の
定義を判明に書いておこう。
□どーすかΩにおける建設的なコメントとは、01)この空間に姿を
現した人間が主体的に、02)応答責任を保持しつつ03)簡明かつ
具体的で、実際に達成可能で、行動に表れ観察可能な目標を定め
04)僕に行為意欲を抱かせるような、時に感情的な内容をもつ発言
である。
必ずしもこれに準じる必要はありませんがこれが一番効きます、
元気ハツラツです。
ここでもうひとつ、引き出されておきましょう。ちょっとだけよ。
<魂>の原理のもうひとつの意味は、普遍の真理がどこにもないと
いう宣言です(「普遍の真理がない」自体も相対的な真実でしかない
ように思える)。ということは、僕は多くを話せば話すほど、どんどん
インチキになってしまうということになります。ならば、僕は耳と目を閉じ
口を噤んで孤独に暮らすべきか、それとも否か。or should I?
<魂>原理は、死なないためにある。死なないで、実際に世界を変え
ようとする。だからこそ、キャッチャーの原理全体では、「行為」が重視
されている。話せば話すほどに遠ざかるのに話し続けようとしている。
この問題をどう乗り越えてゆくか。それは、これから話していく。
(アントリーニ先生の、『未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴
なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義の
ために卑しく生きることを求めることだ』というセリフと呼応している)
それからそれから、これはメタな話なので聞き(読み)流してくれていい
けれど、時期的にはこのことは(吟味はこれからしていくけれど)僕が
「キャッチャー」宣言したから話すことが可能になっている。
「述べて作らず」ってことで、僕はそれまでに語る術を一度失っている。
んじゃ、あとはコメントの部分部分に個別に応答していくか。
「醜いカス」
それは定義によるわね。定義によっては既に十分僕は「醜いカス」かも
しれない。
「言い訳が多い」
それには大小二つの答えがある。大きい方の理由は理論的鍛錬が
必要なので今は伏せとくけど、小さい理由はもう出てるんだな、これが。
(いらないかと思ったけど、没エントリ一枚あげることにする。しばらく
待ってて)で、とりあえず今ここでは簡潔に書いとくと、「~にとっての」という
相対的な真実をコントロールするには十分な条件づけが必要だから。
テクストを一意に決定するのはコンテクストだから。
「矛盾も同じくらい多い。全部気づいていて、多分それでいいんだよね。」
それは物理的限界の「切断」によってもたらされたものです。
「キャッチャー」以後は僕にとっても論理的整合性は必要になってくるかと
思います。それは上の大きい方の理由と同じですけど、矛盾はやっぱり
「あってはならぬさまは、ええいこんなやつ!」です。
「切断」された記事は荒削りなものですが、マッシュアップしていく過程と
しての現実態と捉えてください。そして、「実践重視」だそうなので、その
「矛盾」点をぜひ言葉にしてください。
その必要が生じるのは、marusukeさんにとっての僕と僕にとっての僕が
必ずしも一致しないからです。
それから、情報伝達の過程で差し挟まれるノイズソース対策としては
「コミュニケーションの継続」を想定しています。だから「応答責任を手放さ
ない、手放させない」のであり、「かげふみのようなことをし続ける」の
ですね。
蛇足にサンダルを履かせておくと、僕の文章を読んで「共感」してくれた
のならそれはこのブログのアーキテクチャが有効に作動したということだ。
ここで考えられる可能性はふたつある。
01)僕が意識的にそう仕組んだという可能性。
02)僕が無意識裡に、つまり作者の意図を外れて、まるで自ら動き出した
かのように、システムが組織化された可能性。
これは僕の自由意志の問題であり、「コノートか否か」という問いと同じ
構造をとっている。でも、僕は「行為」と「行動」を分かつものは何もない
んじゃないかとも思う。だから、僕は01)と02)の可能性は外在的に
見分けることができないという立場をとる。そういう問題系を引き受ける
のが、これまた<魂>であり、今は僕は科学がクオリア問題を解いても、
結局のところ、人間はそれでもイノセンスを求めるだろうと予感している
(こころにおけるフロンティアがイノセンスだと了解しているが)。
実在の位相での僕が僕自身に与える確信と、物理的世界に与える確信
とが同じものだと思ったから、「<魂>=世界への確信」と書いた。まあ、
『胡蝶の夢』からの着想だ。僕がアーキテクチャを設計し、アーキテクチャ
が僕を設計する。そういうねじくれてややこしい関係にある。だからこそ、
それと戦うのが困難なのであるし、めっちゃネタバレすると、それと
向き合うために今、「キャッチャーの原理」を育てている。
次、えびへ。
「字でっかくして」
「まあ、字をこんなにでっかくなさって。もう、hyoroさんはホントに
お下劣ですわ」っていう意味合いであれば、お目が高いです、というか
そんなこと言うえびの方がお下劣だと思います。
確かに、僕が文字のフォントサイズを大きくしたのは少し久しぶりです。
が、それは単に見やすくするためだけで、それ以上でもそれ以下でも
ありません。タイトルでの呼びかけと、エントリの内容の順番が反対だった
のでそうしました。これからも、時々は使うかと思います。
ブログもまた遺伝子の表現型の一部であり、一種のソーシャル・デザイン
であるというのなら、僕のブログは比較的コンテクスチュアルなものであり、
それはつまり環境適応性が高いってことです。僕のジョニーが優秀である
証左です。……ってなんてこと言わせるんですか!えびったらもう///
「字をでっかくして」が「字をもっとでかくしてくださいおねげぇですhyoro様」
という意味であれば、嫌です。どぶ川で顔を洗ってお目目パッチリさせて
ください。
「自分が何をしたいのかだけは明白にしておかないと某作家みたいな
小学生の感想文になってしまうぞ」
まず、水村美苗は相当に有名な人です。Wikipediaの彼女の項目を
参照して欲しいですが(彼女が岩井克人さんの奥さんだと知ってとても
びっくりしました)『日本語が亡びるとき』は梅田さんやdankogaiさんやらが
書評を書いて話題になりました。僕が勝手に偉そうに言っていたのはただ
この人の書評を読んだからです。『日本語が亡びるとき』は買ってもいない
です。
□2008-11-11 - 【海難記】 Wrecked on the Sea#p1
http://d.hatena.ne.jp/solar/20081111#p1
そいで、僕はよいこなので、原著ろくに読みもせず、えびを踏み台にして
自分だけ良いことを言っとくと、「小学生の感想文」ではあれ、彼女は
ちゃんと姿を現して意見を言っているわけで、その議論の内容が妥当な
ものかどうかはともかく、耳を傾けるべきだと思います。彼女は姿を
現さずに意見を言う人より、それだけで説得力があるんだ、といえると
思います。(「姿を現す」ことのコストや、耳を傾けるべき我々の有限な
リソースといった、現実的な問題は個別に吟味していきたい)
こう書くと「僕は姿を現していて偉いけどもえびはそうでないからダメだ」
という二項対立に誤導せしめんと思ったところですが、残念ながらえびも
少なくとも僕らのせいで同一的な「えび」としてまなざされてしまっている
ので、うまくネタにできないですね。僕としてはあんまりおいしくなかった
です。すいません、野心が出ました。
「自分が何を話したいのかだけは明白にしておかないと」
これから話していくことを「三点」にまとめる、あるいは「三行で」簡潔に
示してから語り始める。それが「自分が何を話したいのかを明白にして
おくこと」でなければ、一体何がそういうカテゴリーに属することなのか
僕にはよくわからない。もしそれがえびの勘違いでないのなら、僕が
具体的にどうすればいいのか、ぜひご教示願います。より僕の思考に
影響を及ぼしうる(と僕がしているところの)どーすかΩにおける
「建設的なコメント」なるものの定義は上に示したとおりです。よろしく。
こんなところでしょうか。あ、ちなみに、「ですます調」と「だである調」が
混じっているように感じられるのは、僕がみんなの方に向きつつも
ときどき僕自身に語りかけているかのような演出を狙ったものであって、
少量摂取しても健康に害はありません。テストでは減点です。それか、
「みんな」と「みなさん」、両方からのまなざしが感じられて、どういう口調が
ふさわしいかわからなくなってるのかもしれません。タイトル的には
「みんな」を向いているはずなんだけど、僕はより広い観衆、「みなさん」を
向いて話すと言っちゃったわけで。
足が生えすぎてムカデみたいになってきましたが、
「or should I ?」は以前僕が書いたエントリです。各記事にリンク張っても
いいんですが、たぶん、それぞれのエントリのアドレスはテーマ変えると
共にずれるっぽいので、ちょっと嫌です。しかしみみっちい美意識を
かざしても何も起こらないので、一応張っときます。
ずれてたらごめんなさいです。短いので読んでくれるといいかと。
□or should I ?|帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10169702089.html
「1-1=0」テーマは結構大事なエントリがありますね。