火星の夜 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


僕にとって悲劇だったのは、結局のところたぶん、

「誠実ではいられない」ことに気づいてしまったことだった

んじゃないですかね。凄まじいアンビバレンツに、僕は、

引き裂かれて、で、死にかけた。


これは比喩だと思ってくれても構わないけれども、僕は

物理的に死にかけたという理解がより正しいかと思います。


僕ははっきり言ってしまうとなかなかのヘタレですから、

その僕がタフネスを求めようと思い立つくらいに切羽詰ってる

っていうのは、相当な衝撃の、何らかの契機となる出来事が

僕の上に去来したはずですからね。


僕らの脳が一冊の穿たれた書物であり、社会という織物もまた

僕の身体の延長、リアルであるのならば、そこから直に影響を

受けた僕が、物理現実の位相で何らかの行為を実践しようとする

のは、考えられることじゃないですか。

そこで、踏み切ったところで、何も不思議じゃない。


そして、そうだ。あの、僕がそれまでやってきていた「アイデンティティの

古典的模索」なる陳腐な行いと、これまたちょっと香ばしいですが、

エスタブリッシュメント批判、というよりも、ニーチェ齧って意識し始めた

わけだから権力一般批判かもしれませんが、それとは、実は滅法、

相性が悪いんですね。

こちらを立てれば、あちらが立たず。困り果てた僕の前には、

そこには二つの選択肢がありました。


一つは「誠実な行い」を徹底すること。

そしてもう一つは、「大人になる」こと。


これはもう、とってもその偶然に感謝しているんですけれども、

僕はそこでアントリーニ先生の言葉を思い出したんです。

ラッセルの言葉だったかな……?


「未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求める

ことだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために

卑しく生きることを求めることだ」


僕はこれを思い起こして、ホントにそのまま僕のことではないか、

と思ったんです。僕は近眼になっていた。あまりに近づきすぎて、

わけがわからなくなっていた。僕は文字通り、「間抜け」だったん

です。


不条理と戦うためには、他者をまなざさなければならない。

しかし僕は、「利他的」だなんて自分で言う奴は、卑怯で、嘘つきで、

恥ずかしくて、ださくて、フォニーで、……と思っていたから、

これは僕にはちょっと無理じゃないかと。

それで、トンチみたいだけど、僕としては、個人としては利己的に

振舞っていることが、外からは利他的に見えてしまう分には、いいかと

思った。


いずれにせよ、何とかして社会を受け止めるしかないんです。

<善>は関係性の上に創発するものだと。僕の中の不条理は、

外に向けてぶつけていかないと解けないから。


<夜>は、僕の中の井戸の先に広がっているものであるのと同時に、

世界の夜であり、僕の中の他者はすなわち、僕たちの中の火星人と

同じことなんです。


それは、同じコインの表と裏です。