「である」という「する」こと | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


君は、「何もない世界」を想像できるだろうか。

なるほど、確かに、僕や君は、何もない世界を想像できるらしい。

では今度は、君は「胡蝶の夢」を知っているか。荘子という思想家

の有名な説話だ。Wikipediaの荘子の項から、「胡蝶の夢」の説明

を引用しておこう。


荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。

「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。

果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て

荘周になっているのか。」この説話の中に、無為自然、一切斉同の

荘子の考え方がよく現れている。


□荘子 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90


この説話が教えることの中で最も簡単なことは、僕たちが、正に

生きている今ここ、この世界が、本当の本当に本物の世界である

ということは、誰にも証明できないということだ。

僕たちは実際に、この世界の外のことを想像することができる。

平行世界を扱ったフィクションなんて腐るほどあるし、生前の世界、

死後の世界の想像もまた、外の世界の想像に他ならないだろう。

生前、死後の世界を考える宗教も世界には無数にあるんじゃないか。


僕たちが外の世界を想像してしまうということには、説明可能な理由は

たくさんあるのかもしれないけれども、実のところそれはつまり、僕たち

が生きる当のこの世界を、外の世界と比べることで、支えようとしている

ということなのではないだろうか。


デカルトは「実体」を「無限実体=その存在の為に他の何ものをも支え

として必要としないもの」と、「有限実体=その存在は何ものかを支えと

しなければありえないもの」とに分類した。


僕らの世界は、この有限実体なのではないだろうか。少なくとも、僕らには

有限実体のように感じられるから、外の世界に想像を向けないではいられ

ないのだ。外の世界の存在がなければ、僕らの世界もまた存在しない、

そういう風に感じられるのだろう。


では、先ほど聞いた何もない世界はどうだろうか。何もない世界は、

文字通り何もないんだから、支えなんか必要ない、無限実体なのでは

ないか。

本当にそうか。今、何もない世界の実体がありうるのは、僕や君がそれを

想像したからだろう。何もない世界に「住まない住人」は、何もない世界に

ついて考えたりしない。何もない世界は他でもなく、僕や君の存在を支えに

した有限実体なのだ。


このことが教えるのは、「ない」と「ある」とは必ずセットになっているという

ことだ。「ない」という状態は「ある」という状態の否定態としてかありえない。

「ある」という状態は「ない」という状態の否定態としてしかありえない。

「なくした」は必ず、かつて「あった」はずであり、やっと「あった」は、必ず、

それまで「なくしていた」はずだ。


君は、「ある」という状態が、ただそのままの、何の支えも必要としない概念

だと考えてこなかったか。本当に、「自然」は「作為」ではないのか。

違う。「である」とは、「でない」状態ではないように「している」、作為の結果

としての、動的な均衡状態なのだ。

たとえば、生命有機体の自己組織化にまず必要な契機は、「膜」だ。

膜は内と外とを分ける。個「である」状態を生み出すために、その個でない

状態ではないように「している」のだ。


あるひとつの存在は、その存在ではない外部の、他者性の領域存在を

必要とする。全ての存在は、他者性の領域との共存がなくては、

ありえないのだ。


「である」という、「する」こと。