えびへ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「仮に公共放送の場でインタビューされて「……」で済まされるか?

何かしらのアクションを取らなければならないだろう 

そこで一言「何も言えねけぇ」というわけだ」


公共放送ってNHKでしょ?そこはよくわからない。

まず、「……」は、沈黙だととっていいと思う。

実際的に、インタビューの場で沈黙は許されるか。

イエス、許されるだろう。それを、インタビュアーは認めるのか?

僕は、認めるしかないと思う。根拠は何か?

日本国憲法第38条第一項。

「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」

黙秘権は、憲法に規定されている。

したがって、僕らはインタビューにおいて、沈黙することは許される。


そんなことを言ってない?いや、これでいいんだよ。

僕がここで示さなければならないのは、「何も言えねぇ」とすら言いたく

ないときにそれを断れることだからだ。

そんなどうでもいいことを望む人はいないのだから、この議論は

意味をなさない?

ノー。一見どうでもいいような発言が、大きく取り上げられて、発言者

が思ってもみなかった不利な状況に立たされるということは、

ままある話だ。だから、インタビューの場において沈黙が認められる

ことを示すことは、大きな意味を持つ。


さらに言えば、沈黙もまた、アクションであるから、

「公共放送の場におけるインタビューでは何かしらのアクションを

取らなければならない」という法が妥当なものだとしても、「……」と、

沈黙したインタビュイーには、何の問題も認められない。


「一体ここのどこに脱構築の余地があろうか」

上の部分は、先のえびのコメントのどこかの部分と、同じ論理

構造をとっているテクストを、さらに具体例として提示してくれた

ものだと僕は了解した。けれども、それがどの部分なのか、

申し訳ないが僕にはわからなかった。そして、どうしてえびが

さらに具体例を提示するのかといったら、もちろん、それは、

僕が先のコメントを脱構築したと言っているのに対して、

反論するためであるだろう。

けれども、僕はそこにはちょっとした誤解があるのではないかと

思う。なぜならば、脱構築はメッセージの形式と内容の間に矛盾を

見つけるテクニックだから、内容だけを見つめていても、矛盾は見つ

からない、つまり、具体例の追加が、有効にならない場面だからだ。

では、僕が脱構築した例をもう一度見てみる。


「まず、第一に、言わんとすることを全く「理解」していない相手に

「あとこちらの言わんとすることを全く理解していないのは

お互い様だから」と言わんとしても全く無効だろう。

脱構築おわり。」


これは、論理を簡単に書き直すと、

「お前には僕の言うことが絶対にわからないだろう」と、

その当の相手に言ったところで、それは無効だろうと。

だって、「お前には僕の言うことが絶対にわからないだろう」と

いうメッセージの内容が正しいのであれば、形式、つまり、

「「お前には僕の言うことが絶対にわからないだろう」と言うこと」が

徒労に終るであろう事は、メッセージを発信した本人が一番よく

わかっているだろうから。


脱構築の意義は、隠れた前提条件を掘り出し、僕たちがそれを安易に

鵜呑みにしてしまうことを回避させる点にある。

僕はメッセージが批判たりうるには、説得的レトリックが使用されては

ならないと考えているから、だから脱構築を用いた。

確かに、大したロジックではないけれども、鍍金を剥がすには十分

だったんじゃない?


ちなみに、あらゆるテクストは脱構築できると言った人がいる

らしいのだけれど、残念ながら僕は詳しく知らない。


「文脈理解をせずに抜き出したワードで物を語るのは小学生まで

だと言っている(ここでの小学生というのはあくまでも比喩である

ことをお忘れなく)」

「レトリックにはレトリックを」、ということで。ごほん。


この程度の陳腐な皮肉だと僕は応答するのもわずらわしいですね。

君の美学に則ってお話しをするのであれば、僕は物を語る上で、

例えば「理解」などというマジックワードを、碌に定義づけすらせずに

使うような礼儀知らずが許されるのは小学生までだと言っている。

これは比喩表現ではなく、社会的な事実だ。


これは「説得力」があるのか?イラッとするだけだろう。

で、内容について。


確かに、文中の語は、文脈によって意味を限定される。

そのことについては僕も異論ない。

だが、その前に、「語は文に先立つ」だろう?なぜならば語のまとまり

こそが、文だからだ。

語の定義をひとつひとつしていかない限り、議論が建設的なものに

なることはないだろう。僕はそう思う。


まとめれば、コミュニケーションにおいて、メッセージの受信者は、

相手の発言の論理構造=文脈を十分に配慮する必要があるが、

文脈を配慮しようという態度の徹底は、例えば逐一の、語の定義確認

として顕在してくる場合は、これは大いにありうる。


「いちいち説明しなければならないほどにお互いの言葉は理解されて

いないということは一度対話すればわかるし 実際ほぼ毎日顔を

合わせて会話しているのだからたいていのことは経験則で語れると

思う」


本当に、「いちいち説明をせずに次から次に進む日常会話」では、

互いの言葉はよく理解されているものなのか?

それは、厳密に互いの意見の違いを捕捉し、議論を詰めようとしない、

ただの思考停止ではないか?

きっと、この人は私のことをよくわかっているから、こう、言うんだ。

ノー。互いにそう見えているだけ。願望に過ぎない。


僕には、一度の軽い対話によって、僕の言葉を十全に相手に伝える

自信なんて全くない。相当熟練し、かつミクロ・コンテクスト(そのうち

定義する)をも共有する二者でなければ、不可能だろう。

そこには、二人の間には、無数のコンテクストが降り積もっている。

その中には言葉をお互いにうまく理解し合えなくて苦しんだという

コンテクストさえ、見つかるはずだ。


また、そこに向けてともに歩もうではないか、というのなら、こちらには

その用意がある。


「もしリアルのひょろとネット上のひょろが同一思考でないの

言うのなら話は別だが」

うーんと、それは保証できない。それこそメディア比較論みたいなさ、

脳が考えるのではなく身体が考えて、それを脳が纏め上げているだけ

なのだとすれば、外部デジタルメディアという社会的な身体の延長は、

意識をも異なる姿に変えるはずだ。

例えば、作家がペンからキーボードに持ち替えたとき、文章はまるで

変わるという話しを聞いたことがある。(ソース不明)


「ああ長くなってしまった こちらからの発信が

後手になってしまうのだから仕方ないか」

ここにはとても貴重な問題意識が眠っていると思う。

ブログ・コミュニケーションについてはもう少し考える必要があるんじゃ

ないかな。とりあえずの対症療法としては、ブログ同士の対話にすれば、

対称関係になるのではないか、と。


「一応言っておくと改行入れてくれてありがとう 文字も心なしか大きく

なっている気もする」

改行はこちらの都合で行ってる、と思うが、ま、どういたしまして。

文字サイズは、僕は変えたつもりはないけど、宇宙の秩序が乱れた

んじゃないか?


「気遣いなんてそのくらいでいいんだよね」

これは僕の価値だから君にも強制するつもりはないが、僕はそう

考えない。妥協にはポジティブなものとネガティブなものがある。

このケースは後者だろう。



「正直このブログ重いわぁ^^」ってのは、ま、わかってるけど、一方で

「軽い気持ちでコメントしてね^^」とも書いてる僕が矛盾してるのは、

いくらか自覚してる。この差をどう埋めようかしら、みたいなね。

……猫でもかぶるか?