既に起こったいくつかの現象の複合へ、それらが
結果的に収斂・帰結した「答え」の位置から遡及的な
まなざしを向け、その中から今ここにある「答え」を
もたらしたものであるはずの因果の「因」を見出そうとして、
――そこから力強い、明確・決定的な「因」を読み取れば、
出発点となる「答え」と比較したときにつじつまの合わない、
あるいは意味消失している<枝分かれ>に位置する現象は
ノイズと見なされて、それが処理されるのが意思層であるのと
無意識層にあるのとに関わらず、文脈なる軌跡から欠落させ
られてしまうことになるのだけれど――本来無数にあったはず
の、前意味的な現象の複合から見出された糸[=スレッド]の内
いくつかを選択し、(あるいはそれ以外を捨象し、)対象を偶有的
な一個の「名前」に封じ込め、一定の<社会的現実>へと変容
させる。
だから、とある「名前」の指し示す意味内容は手放しの本質ではなく
言外にそれが予め措定された特定のパースペクティブに依拠した
動(生)情報だという前提を内包しているものだ。
原理的に、それは観察者の立ち位置における、主観的な現れ、「相」
としてしかまなざされることはありえないから、「~にとっての」という
留保が飽くまで残ることになる。
そして、しばしば「名づけ」の副作用に自覚的な人間が権力を持ち、
あるいは権力者がそれを自覚し、何らかの意図の下、往々にして
悪意的に、むしろその副作用の為に、既に名を持つ現象に対して
「再名づけ」を行うことがある。
その「再名づけ」は副作用こそが目的であるから、名付け親は因果律
にさほど興味がない。彼/彼女はできる限り、「名づけられるモノ」との
間につながりを読むことが難しい「脈絡のない名前」を選ぶ。
たしかに、本来「名づけ」という行為自体、指し示される対象と、その
胞壁となる表象との間にはいくらかの飛躍・断裂があるけれども、
しかしこの「再名づけ」は、対象の上に降り積もってきた、先行する
一切の現象の記憶をフォーマットしてしまう。
そして、彼/彼女は僕らの魂を殺してしまうことになる。
「イノセンスへの回帰」とは、いささか魅力的だけれど、でも、
僕らはこの暴力的行為に十分注意を払ってしかるべきだろう。