反省、意味づけ/情報化+名づけ、忘却。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


 既に起こったいくつかの現象の複合へ、それらが

結果的に収斂・帰結した「答え」の位置から遡及的な

まなざしを向け、その中から今ここにある「答え」を

もたらしたものであるはずの因果の「因」を見出そうとして、

――そこから力強い、明確・決定的な「因」を読み取れば、

出発点となる「答え」と比較したときにつじつまの合わない、

あるいは意味消失している<枝分かれ>に位置する現象は

ノイズと見なされて、それが処理されるのが意思層であるのと

無意識層にあるのとに関わらず、文脈なる軌跡から欠落させ

られてしまうことになるのだけれど――本来無数にあったはず

の、前意味的な現象の複合から見出された糸[=スレッド]の内

いくつかを選択し、(あるいはそれ以外を捨象し、)対象を偶有的

な一個の「名前」に封じ込め、一定の<社会的現実>へと変容

させる。


だから、とある「名前」の指し示す意味内容は手放しの本質ではなく

言外にそれが予め措定された特定のパースペクティブに依拠した

動(生)情報だという前提を内包しているものだ。

原理的に、それは観察者の立ち位置における、主観的な現れ、「相」

としてしかまなざされることはありえないから、「~にとっての」という

留保が飽くまで残ることになる。


そして、しばしば「名づけ」の副作用に自覚的な人間が権力を持ち、

あるいは権力者がそれを自覚し、何らかの意図の下、往々にして

悪意的に、むしろその副作用の為に、既に名を持つ現象に対して

「再名づけ」を行うことがある。

その「再名づけ」は副作用こそが目的であるから、名付け親は因果律

にさほど興味がない。彼/彼女はできる限り、「名づけられるモノ」との

間につながりを読むことが難しい「脈絡のない名前」を選ぶ。


たしかに、本来「名づけ」という行為自体、指し示される対象と、その

胞壁となる表象との間にはいくらかの飛躍・断裂があるけれども、

しかしこの「再名づけ」は、対象の上に降り積もってきた、先行する

一切の現象の記憶をフォーマットしてしまう。


そして、彼/彼女は僕らの魂を殺してしまうことになる。


「イノセンスへの回帰」とは、いささか魅力的だけれど、でも、

僕らはこの暴力的行為に十分注意を払ってしかるべきだろう。