私塾において、どれだけの時間をとって論議したとしても、
通説へと収束していかないならば、「決める」為の要素は
「如何に雄弁であったか」ということになってしまうのではないか?
それじゃあ、ソフィストの時代へと逆戻りだ。
ありえた可能性を全て掬って、そしてその上で「終らせる」ことは
ほんとうにできるのだろうか?
回転木馬のデッド・ヒート。
虚構への反復をむしろ徹底することで・・・突破できるか?
自分[=原理主義]を信じて、私塾[=多文化主義]の
フィールドで戦うことは何を意味するんだろう。
それが「道徳的趣味」の領域へと拡散しないように
「どうにか」しないといけない。
ほんとに、どうすればいいんだろう?