きがついたけど | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

私塾において、どれだけの時間をとって論議したとしても、

通説へと収束していかないならば、「決める」為の要素は

「如何に雄弁であったか」ということになってしまうのではないか?


それじゃあ、ソフィストの時代へと逆戻りだ。


ありえた可能性を全て掬って、そしてその上で「終らせる」ことは

ほんとうにできるのだろうか?


回転木馬のデッド・ヒート。


虚構への反復をむしろ徹底することで・・・突破できるか?


自分[=原理主義]を信じて、私塾[=多文化主義]の

フィールドで戦うことは何を意味するんだろう。


それが「道徳的趣味」の領域へと拡散しないように

「どうにか」しないといけない。


ほんとに、どうすればいいんだろう?