ぼくらの学校へようこそ![没] | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ぼくらの学校へようこそ!


▽学校はなにをするところなのですか?


学校はなにをするところなのでしょう?勉強をするところでしょうか?

学校にやってくる子供達にとって、学校とはどんなものにでもなりうる、可能性に満ちた場所なのではないでしょうか。大人の立場からは、学校には「教育の場」という社会的役割を演じてもらいますが、そこに実際に参加する子供達には、そんなものはただの踏み台として打ち捨てて高く飛躍し、その手でもっと大きなものを掴み取ってほしいです。


ここでは二種類の学校的要素を考えます。すなわち、基礎的な、一般的な教育[=義務教育]。そうして、高校以降の[義務教育以降]の教育。教育とは、特定の社会の、特定のパースペクティブをねじ込む作業に他ありません[=社会化]。そこでは社会の継続、発展に利益的な知識ばかりが扱われています。非社会的な知識やパースペクティブは蔑まれ、あるいはその視点への関心自体が悪だとして、排除されるべきものと見なされます。「道徳」という授業はそれ自体が不道徳かもしれません。教育は、あるいは「特定の情報をパッケージして与える」という作業は、それ自体には何の根拠もなく、代替可能な特定のパースペクティブによるものだということ[=可謬的な偏り]。僕達は常にそれを意識して、教育のあり方を考えていくべきです。


▽<知ること>はよいことか。

<知ること>を、どうヴァリデーションすべきでしょうか。西洋近代以降は、記憶は絶対的に善いことだとされてきました。僕らのパースペクティブを組織づけるのは記憶の束です。そして<私>は、記憶によって編み出される、社会的連続性の結節点として浮かび上がります。


記憶によって約束が生まれる。約束によって交換が生まれる。交換によって価値が生まれる。価値によって戦争が生まれる。戦争によって政治が生まれる。政治によって社会が生まれる。社会によって、僕が生まれる。


記憶は社会の生成に必須なものです。それが正しいか、正しくないか以前に、社会システムはそれをただ肯定し、擁護します。しかし、記憶がもともとの脳の機能を阻害するものだという可能性はあるわけですね。信憑性は低いかも知れませんが、具体例としてサヴァン症候群を挙げておきます。

□サヴァン症候群 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4


ここでは、知って考えることが善いこと、僕が僕の<リアル>を生きることが善いことだという、僕のディオニュソス的信念に基づいて考えていきたいと思います。考えて、そうして考えることがよくないという結論に至れば、そのときは忘却の方法を考えましょう。「長い長い回り道」、<打ち捨てられるべき螺旋階段>を進んで行こうではあーりませんか。


▽インターネットの登場と<先生>の没落

インターネットのコモデティ化の進行に伴って、記憶の外部化が進んでいます。

「全ての情報は共有し並列化されることで単一性を消失し動機ある他者の意思に、あるいは動機なき他者の無意識に内包される。」

「(狭義の)知者である」価値が消滅しつつあるということだと言いかえることが出来ます。もしかして・・・これまでの<先生>や<学校>の権威は、結局のところ、情報に頼ったものだったのではないですか?『薔薇の名前』の迷宮図書館を思い出させます。教会[学校]の権威づけに情報を利用するという点では今も昔もあまり変わらないように思います。

同様の議論は高齢者にも当てはめることが出来ます。高齢者が尊いのはただ高齢であり、正に先生だからではありませんか?高齢者の尊厳は生命のそれと同じ文脈で語られるべきであり、知者だからという理由で語られるべきではないと思います。それは生命への冒涜ではないですか?

社会が個人という虚構を作って、その個人の記憶との契約によりその個人に自由を与え、責任を与えるならば、その選択の責任は個人の記憶に帰結します。個人のあらゆる行為は偶有的な物である限り選択と見なされます。「知ること」の究極は自らの死について知ること、死を選ぶことです。次のケースを考察します。

インフォームド=コンセントの原則に基づいて、ガンを告知された。がん治療には莫大な心理的、経済的、肉体的負担がかかる。それは、家族の生を脅かすものであり、彼らの自由を束縛している。一方、ここには「安楽死」がある。それを選ぶべきか?

僕には、「知る権利」と同じくらい、「知らない権利」があります。それをどう両立させるのかが課題です。果たして、知ること、自ら選ぶことは絶対的に正しいものか?


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大学受験撤廃論者なので、将来的には

大学受験では「高校卒業程度」の習熟度の身体に調整する能力が問われる。