いにしえーしょん[没] | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「アイデンティティの古典的模索」→オリジナルティに対する疑念。(そもそもそんなものあるの?)究極的なデタッチメント←能動的イニシエーション(僕は僕を殺す、と。それも徹底的に。)「全ての情報は共有し、並列化した時点で単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは動機ある他者の意思に内包される。」

自我=アイデンティティという擬制を考える。「心」はともかく、少なくとも「脳」は生命という秩序(=エントロピーへの抵抗)の維持の為に発達した情報処理装置であることは確か。あるいは長く引き伸ばされた迂遠な回路である。高度な秩序とは、入り組んだ「猥雑な乱雑さ」にすぎない。要は視点をとった、何かしらの意味の付与ができる前提としての価値空間が存在する混沌である。(これもまた「位置」の議論に引きずり下ろされる。)

価値空間は言い換えれば使い古しの「言い回し(フレーズ)」や「題材(モチーフ)」を詰めたデータベースでもある。リリーディングという作業はこのデータベース上に位置づけられた後でも尚、噛み砕けずにカタマリとして残留していたエピソードに注目しそこから新しくデータフラグメントを抽出して、それらを組み合わせることで新しい構造=シミュラークルを生み出す思考実験である。

アイデンティティを確認する方法はとりあえず二つ。「時間的連続性、一貫性の確認」「他者からの承認(=他者による連続性の確認)」しかない。結局は、彼が(僕が)何かを選択するとき、他のものではなくあるものを特別に選好・欲望できるのは、僕らが任意の共同体・共同性の社会システムの中で特定の位置を占め、その位置を引き受けているという事実から派生する特殊な利害関心や価値観へコミットしているからに他ならない。

利害関心や価値観のオートポイエーシス的体系こそがアイデンティティだというわけだ。(それらの構成要素による相互作用と変換を通じて体系を持続的に再生成し実現する)しかし、今言ったようにこれらは全て僕達が社会システムの特定の「位置」を持つことに起因する。その位置を同社会システム内の他者の「位置」から測ることで「自我」を実感できる。しかし、いや、だからこそ、この「位置取り」、任意の共同体への「位置取り」は必然のものとされ、(共同体への参入が自己否定を伴う厳しいものであるのはこの為だ。)生来の諸要素の責任を主体に問うことは道徳的に禁じられている。他ではありえないものだとされているから。しかし、“I was born.”僕達が初めに特定の共同体の、特定の位置に固定されるとき、これはどうしても受動の様相をもって立ち現れる。(生前の世界、死後の世界については考えないことにしよう。感得出来ないから「死」なのだ。)やはりこれは必然ではない。生まれるはずだったのは僕ではなかったのかもしれない。僕は生まれ得なかったのかもしれないのだ。親が我が子をかけがえのない、代替不可能な対象として接するからこの生が必然のものに感じられるのだ。赤ん坊は親と自分とを別の個体として認識できない。自分だけでは生きられないというのもそうだが社会における「位置取り」は唯一、親との関係の中でだけ確認できるからだ。(歴史の必然的相貌、「理性の狡知」参照。)とにかく、最初の「位置取り」もまた偶有的な選択である。しかし、これもまた自己否定を伴う、参入の方向にしか選べない選択である。この選択の責任が「道徳的」に問われないのは、それが感得できない死の領域において為されたから、あるいは選択がなされた後では(参入以後は)少なくとも、確固とした自我は未だに確認できないから。いや、「道徳」はこれらを隠蔽しようとする。

彼らが―社会システム内の高度な位置を占める「道徳的」知識人達が―「生」の必然性を騙るのはまさしく現行の社会システムを固持する為である。そこでは「生」は常に絶対的な必然性の相貌として現前していなければならないのだ。それは恐らく(西洋)近代においてもまた「制作(ポイエーシス)」が人間の営為の基調として通奏低音のように流れているから。人間がその位置関係からではなく、その制作物によって規定されるような社会においては「作者」という擬制が充満する。「である」⇒「する」

「芸術なんて何でもないのだ。それを見極め、捨てたところから、はじめて本当に意味が開ける。芸術に憧れ、しがみつき、恐れ、叫び、追いかける。そのような芸術主義では、ついに『芸術』に達することは出来ない。」ゴッホはなぜ自らを撃たなければならなかったのか?「芸術」が嘘っぱちだったからだ。

「言語は、平均的なもの、中位のもの、話の通じるもの、のために考案されたにすぎない。言語によって語り手は己を通俗化する」「お互いが理解しあうためには、同一の言葉を使うだけではまだ十分ではない。同じ種類の内的体験に対して同一の言葉を使うのでもなければならない、結局は各人が共通の体験を持たねばならない」「類似なもの、凡俗なもの、月並みなもの、群棲動物的なものへの――つまり卑小なものへの!――人間の進展を阻止するために、対抗する巨大な力を呼び起こさねばならない」

「僕は僕だけが偶々知り得た情報の確認と伝播を自身の指名と錯覚し、奔走した。」

「無垢な媒介者は社会システムの醜悪さに落胆し、口を噤んだ。」

「そして僕は消滅する媒介者となった。あたかも新作を発表しないことでその存在を誇張されてしまう作家のように。つまり、それは消滅することによって社会システムの動態を規定する媒体であり、最終的にはシステムの内側にも外側にも、その痕跡をとどめない」オリジナルの媒介者が伝播を志向した情報は、現行の社会システムにおける組織構成の自律決定codeを揺るがしかねない物であった為に排除された。しかし、媒介者のアイデンティティは、決定的な情報を欠いたまま、動機ある他者の意思、動機なき他者の無意識によって特殊なキャラクターコンテンツとしてデータフラグメントの集積に還元された。そしてオリジナルが消滅した後に、各々の解釈によって再生成されたオリジナルなきコピーが大量に噴出したのである。

パースペクティブ主義というパースペクティブがある。

解釈は憧れや希望の投影でもある。憧れや希望は現実の否定であり、解釈は原理的にルサンチマンから発生する弱者の行為である。

「解釈」に打ち克つためには「現実の肯定」が必要である。

一切のメタレベルの視点を否定し、オブジェクトレベルに立ち帰ることで社会、言語、自我、道徳、階級、意味・・・全ての解釈は消滅する。内容と形式の一致の後にあるのはルールの無い「遊び」であり、遊戯意味と全体性の回復、そして永遠回帰の循環である。偶有的な一つの選択肢が偶有性をもって反復し続けることで、それ自体が必然の様相を帯びて立ち表れてくる。最早過去の再解釈(解釈の差し替え)は許されず、時間は空間化されえないまま他者性と未知性を回復する。(必然の様相を帯びた「特殊」ではあるが、やはり偶然なのだ。)