『四月物語』考察♯04 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


自分の内部にひとつの<物語>をつくって

自らもそこに没入する。「身体的な水準」では

虚構とわかりつつも、フィアネスとディセンシーを

兼ね備えた「リアル」へのアプローチとしての可能性を

信じ、自分の<物語>を磨き上げていく。


現実世界のリアリティも、世界全体を「情報」として

そのまま「か身交える」ことはできない。

秀逸な詩歌が限られた言葉によって世界を切り取るように

(恣意的な取捨選択によって)世界のメタファーとしての

<物語>をつくって、自分だけの「窓」のように

そこから世界を眺めるのだ。


「歴史的に、信長が死んで家康が日本を治めていくことに

なるのだから、信長が日本の指導者であり続けるには

家康になり代わるしかない」というのは恐らく、

映画『生きていた信長』にて信長を演じた「江口洋介(山)」の

考えである。(あるいは更に視点を遡って岩井俊二や観客

の考え)


卯月が「愛の奇跡」と信じ、そこに至る為に

「憧れの先輩を追いかけて上京したのではなくてたまたま

東京の大学に進学することになった、ごくありふれた

普通の女の子」という擬制を演じたように、

信長の「リアル」へのアプローチとしての「言語的な水準」の

リアリティ=<物語>は全てが終った時点から遡及して

「ご都合主義的」な少しばかりの「奇跡」で、彼女/彼の

世界を纏め上げていく。


うまそうに煙草を呑む信長の、なんと満足そうな表情だろう!


Howばかりを問う<真>の追求だけが、必ずしも

正しい生き方ではないんじゃないだろうか。


あんなにひどいどしゃぶりだったのに。

美しい、…雨だ。