自分の内部にひとつの<物語>をつくって
自らもそこに没入する。「身体的な水準」では
虚構とわかりつつも、フィアネスとディセンシーを
兼ね備えた「リアル」へのアプローチとしての可能性を
信じ、自分の<物語>を磨き上げていく。
現実世界のリアリティも、世界全体を「情報」として
そのまま「か身交える」ことはできない。
秀逸な詩歌が限られた言葉によって世界を切り取るように
(恣意的な取捨選択によって)世界のメタファーとしての
<物語>をつくって、自分だけの「窓」のように
そこから世界を眺めるのだ。
「歴史的に、信長が死んで家康が日本を治めていくことに
なるのだから、信長が日本の指導者であり続けるには
家康になり代わるしかない」というのは恐らく、
映画『生きていた信長』にて信長を演じた「江口洋介(山)」の
考えである。(あるいは更に視点を遡って岩井俊二や観客
の考え)
卯月が「愛の奇跡」と信じ、そこに至る為に
「憧れの先輩を追いかけて上京したのではなくてたまたま
東京の大学に進学することになった、ごくありふれた
普通の女の子」という擬制を演じたように、
信長の「リアル」へのアプローチとしての「言語的な水準」の
リアリティ=<物語>は全てが終った時点から遡及して
「ご都合主義的」な少しばかりの「奇跡」で、彼女/彼の
世界を纏め上げていく。
うまそうに煙草を呑む信長の、なんと満足そうな表情だろう!
Howばかりを問う<真>の追求だけが、必ずしも
正しい生き方ではないんじゃないだろうか。
あんなにひどいどしゃぶりだったのに。
美しい、…雨だ。