こみっと | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで



おーっす、ひょろです。


いやー眠いね。うむ。

もう半年くらい冬眠してたいです。



今日はテスト三日目。


早い早い。もう半分終わったね。


今回はとてもリラックスしてテストに臨んでるせいか、

進むのが早く感じられます。


やはり、ほんの少しですが青チャートをこなしたので

数学に対する闇雲な恐怖から開放され、またテストで

いい感じの手応えだったのでそれが自信につながってるんでしょうな。


現国


「である」ことと「する」こと 

丸山真男


隠し剣 鬼の爪

前近代の崩壊と近代の萌芽



ダメだ・・・。丸山真男とはやっぱりフィーリングが合わないや。

いまいち入り込めませぬ。

たぶん7とか。


日本史


World WarⅡ 戦後処理~現在


うーん・・・。一夜漬けでは限界がありますね。

というか集中力がないので一日では完成しないです。

いまいち




ま、ボーダーラインにひっかからなきゃなんでもいいや。


今日は久しぶりにちょっと長めの記事。



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最近読んだ本


要約というか、なるほどなーと思ったところを

少し書いてみました。





○日本を滅ぼす教育論議 岡本薫


・ルールを決めるということは、


裏返せばルールで制限されていないことは

全て「自由」だということになる。


もちろん「自由」に行動するということは「責任」

を伴うわけだが。


例えば企業がルールに違反しない範囲で稼いでも

儲けすぎだなんて批判されたり、


ルール違反をしたわけでもないのに

世間様を騒がせてしまったと謝らなきゃいけなかったりするのは

「ルール感覚」が欠如しているといえよう。


(一概にそれが間違ってるとは言えないけどね)


そして日本ではルールをつくる際に「民主主義」が

採用されているわけだが、

「民主主義」の背景には「相対主義」がある。


相対主義とは「絶対に正しいこと」が存在しない

ということである。


また、これはどんな思想、信条、良心を持っている人

であっても、それを「絶対的に正しいもの」と考えて

はならず、「ルール」に従わなければならないということでもある。



「和の精神」を信仰するのは結構だけれど、異質な人々が住む社会

の中で「和」を実現するのは簡単なことではないということを

忘れちゃいけない。


明確に「ルール」を定めることは「自由」の明確な線引きとなり、

「和」の実現の大きな手助けとなってくれるだろう。



△教育論議の失敗を例に、(主にゆとり教育)議論の進め方の

指南書となってくれる一冊。


ゆとり教育って結局なにがダメなの?っていう質問に

答えられない人はぜひ読んでみよう!



○痛快!心理学 入門編

――なぜ僕らの心は壊れてしまうのか 和田秀樹



「ツー・パーソン・サイコロジー」


「人の心は、人の内側にあるのではなく、人と人との

『かかわりあい interaction』によって生まれるものだ」という考え方です。




実験心理学と違い、臨床心理学では

実際に患者を治せなければどんなにスマートな理論であっても

意味がないのです。



△フロイトとコフートをメインに、おおまかな心理学の流れを

理解することができます。


今、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を読んでるんだけど

河合隼雄氏は心理学のお医者さんなんだよね。


この本を読んでいたおかげで、彼の言わんとするところが

なんとなくではありますがわかるので助かりました。


自己と自我の違いを説明できない人は読んでみると

いいと思います(´・ω・`)オヌヌメ


ちなみに実践編もあるよ(僕もまだ読んでないけど)


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関連して


「アイデンティティってなんだろね? ♯1」


私はどういう人間なんだろう?どんな仕事が向いてるんだろう?

なんてのは誰しもが考えたことがあるはずです。


不肖ひょろめも現在進行系でモラトリアムを謳歌しております。


エリクソンによれば、モラトリアムとはまったりしたものじゃなくて

アイデンティティを確立するための激しい戦い、

自分とは何か?という問の答えを求めて、あがき苦しむ壮絶な期間

のことだそうですが・・・?



とにかく。

ふにゃふにゃと、あーでもないこーでもないとやっていて、今回の

現国のテストなんかを通して思ったことをちょいとメモっときます。



○ individual ≠ 個人 ?


日本語での個人というのと、英語の中のindividualと

いうものとの間には、どうも差があるみたいですね。


だから、僕達にとっての


「アイデンティティってなんぞ?」


という問は、論理を重視する英語圏に住む人々にとっての

それよりも難解だろうと思います。


その原因の一つに、

「個」の最小単位があくまで、古くは「家」、今は、

そうですね・・・

「フィールド」、その人が属する環境であることが

挙げられると思います。


例えばアメリカでの「個人!」というほどは

日本では個を捕らえにくいでしょう。


確かに

僕は四人家族の長男であり、

高校2年8組24番の生徒であり、

「どうすかΩ」というクソブログの執筆者であり・・・


という風に個人を軸にして複数のフィールドに

同時に分類されているわけですが、

やはり「個!」という感覚はいまいちつかめません。





日本において「個人」ということを考えるとき、

どうしても日本の歴史に目を向けざるを得ないなというのは

僕もなんとなく感じました。


特に江戸時代の終わり、黒船の来襲によって

太平の眠りを覚まさせられたあたり。


凝り固まった価値観の閉塞した世界を、

言い方は悪いですけど暴力によってぶっ壊され、

外の世界にいきなりさらされた「日本」。


ここで、「日本」という「家」が求めた「日本らしさ」

を追うことはアイデンティティを見出すヒントに

なりそうですね。


なんとなく明治に惹かれるのは、

やはり日本がアイデンティティを模索していたから

なんでしょうかね。



うん、夏目漱石でも読むかな。



日本人にとって、「歴史」というものはクロニクルに

積み上げられていくものではなくて

全て「いま」起きてることだという考え方は、なんとなく

わかる気がします。



第二回があるのかどうかわかりませんがとりあえず

ここまで。


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