ビルマに生まれたミャンマーのひと | 手のひらの中のアジア

ビルマに生まれたミャンマーのひと

ミャンマー 水汲みをする少女


小さなレストラン、僕の隣に座っていたミャンマー人のニン。

今日もバガンで1日を過ごしていたある時、僕は彼女を見ていてふと思うことがあった。


彼女がこの世に生まれた時、この国は「ビルマ」という名の国だった。民主化を叫ぶ学生たちの反政府デモが勃発し、やがて全国的な運動に発展していった1980年代半ばから後半。まだ彼女が無邪気に村ではしゃぎまわる4,5歳のかわいらしい少女だった頃、世の中の情勢もわからず、自分がどういう世界の下で生きているのかということにもおそらく気づかなかったであろう彼女をよそに、軍政下、この国は「ミャンマー連邦」という名に変わった。


国名の変更とともに、何が変わったのだろう。


ビルマの国に生まれた彼女を見ている限り、彼女自身が生きる上で、国名が変わろうが、軍政が敷かれていようが、それはさしたる問題ではないように見えた。


もし僕が旅をしている間に、日本という国、「ニッポン」が「パッポン」にでもなったら、それはもう一大事だ。さらに関東1都6県の7つを統合して「ナナ」とします、なんてことになったら僕はもうどうしていいのかわからない。(パッポン、ナナは言わずと知れたタイ・バンコクの歓楽街・・)バックパッカーの男たちはとっとと旅を切り上げて、足早に帰郷するかもしれない・・。まだ旅を続ける旅行者たちは、世界各国でこういう会話をするのだろう。


「Where are you from?」


「I’m from PAPPON.」


それは果たしていかなるものか・・。


そんなくだらない話はいいとして、しかし肝心なことは、「名前」は変わったが「中身」はどうなのか、ということだ。ニッポンがパッポンに、関東県がナナになったところで、中身が伴っていなければ(男たちにとっては、歓楽化が伴っていなければ・・)何の意味もないのだ。


ミャンマーはどうなのか。


相変わらず軍政のもとに国は動かされ、民主化を求める団体との対立の構図は変わっていない。ノーベル平和賞を受賞した、かのアウンサン・スーチーは何度となく軟禁と解放を繰り返し、今なお再びの軟禁状態を余儀なくされている。


旅行者の間では、


「ミャンマーはいいよ。最高だね。強制両替もなくなって、今が一番旅しやすいよ」


そんな話がよく飛び交っていた。それでも僕は、未知の国であったミャンマーに対して、いくばくかの不安というものを持っていた。2002年、アウンサン・スーチーが自宅軟禁を解かれた後も、すぐに武力衝突による国境封鎖、その翌年には軍政関係団体による民主連盟への襲撃事件、そしてアウンサン・スーチーは再び軟禁された。どこか不安定な政情、何かに巻きこまれそうな危険性を否定できない要素を残したまま、ミャンマーへの旅を考えていたのだ。


それでも訪れることにしたのは、自分よりもほんの少し前にミャンマーを訪れた人たちの「よかったぁ」という感想と、自分がタイ側から陸路で一部入国した際に見たミャンマーが僕をたまらないほどにわくわくさせたからだった。


実際に訪れてみてどうだろう。


あくまで観光客という立場で街を歩く限り、危険な匂いどころか、これがずっと政情不安で揉めに揉めてきて、今もそれが終わってはいないと言われている国なのだろうか、と思うほどその不安を感じることはなかった。


「街ではうかつにアウンサンという言葉を口にしない方がいい」


入国前に聞かされたそんなことさえ、僕はヤンゴンに着いてから忘れていたほどだ。


タウンヂー、インレーからさらに西へ西へ、いわゆる田舎を渡り歩くにあたっては、それまで他の旅行者たちが言っていたとおり、穏やかさと平和に満ちた、まさに「東南アジア最後の楽園」が広がっていた。


そして今、僕の隣にはビルマに生まれたミャンマーの女性が、今日も1日、バガンで過ごす時の止まってしまったような穏やかさの中、小さなレストランの椅子に座り、「どこ行こっかぁ」なんて地図を眺めている。


まだ完全に政治問題が解決にいたっていないミャンマーで、かつての学生民主化運動から発展するような全国的な大事が勃発したとしたら、その時、今の彼女の毎日に影響は及ぶのだろうか。その昔4,5歳だった少女は今、当時の政治的運動の中心であった学生と同じほどの年齢になった。僕が出会った友達のリンや日本語を学ぼうと頑張っていた生徒たちも皆、同じだ。今、ある程度政情が安定しているということもあるけれど、ミャンマーの若者たちは、皆自分の将来、人生のために生き生きと楽しそうに毎日を過ごしていた。


とりわけ、今僕の隣に座っている彼女を見ていると、あらゆることがまるで無関係のようにも思えたし、この国の影の部分はまったくといっていいほど浮かび上がってこなかった。


国全体と彼女個人といった観点からすると当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、でもそれは僕が、ある意味無関係であってほしい、このまま平和のもとに皆が毎日を過ごしてくれたらいい、という願いを込めた見方でもあったのだ。


そしてそのためにも、ミャンマーという国の情勢が再び悪化の一途を辿らないことを、何よりも強く僕は願う。


「ブーパヤー・パゴダに行こっ」


彼女がそう言った。


「ん?あ、あぁ・・、いきますか(笑)」


「どうかした?」


「いや、別に。。」


僕は、ペットボトルの水を一口飲んだあと、彼女を自転車の後ろに乗せて、この日もオールドバガンへと続く道を走り始めたのだった。


ミャンマー バガン ブッパヤーパゴダ


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