2005年:日本⇒香港→マカオ→中国→ベトナム→中国(雲南省)→ラオス→タイ→(ラオス→タイ)⇒ミャンマー⇒バングラデシュ
2006年:バングラデシュ→インド⇒タイ→ラオス⇒インド→ネパール→インド→パキスタン→中国→チベット→ネパール
2007年:ネパール→インド→パキスタン→中国→キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン→タジキスタン⇒キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン⇒アゼルバイジャン→グルジア→アルメニア→グルジア→トルコ
2008年:トルコ→シリア→ヨルダン⇒イエメン⇒アルメニア→グルジア→トルコ→(ブルガリア→ルーマニア)→トルコ⇒ネパール→インド→パキスタン
2009年:パキスタン→インド⇒ ※「⇒」:飛行機 / 「→」:自転車、バス、列車、フェリーなど
★春が来る前に
この3ヶ月ほど、パキスタンの雪深い奥地、いくつかの小さな村を訪問し滞在していた。
あっという間の毎日だった。
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「Hiro going, Everytime snow snow.」
ヒロが出発しようとすると、いつも雪だね。
片言の英語を並べ、シャプリは空を見上げながらなんだか嬉しそうに言う。
「そうだね、確かに」
彼女の横に並んで同じように空を見上げていた僕は、苦笑いしてうなずく。
雪の中、どこかへ出かける支度をしていた兄のアシフが話を聞いていたのか、外に出てきて僕に言う。
「みんな、行ってほしくないって思ってるんだよ」
片方のほどけた靴紐を結び直しながら、しゃがみ込んだ姿勢のまま彼は僕の方を見上げる。
「Everybody likes you. Everybody loves you.」
照れくさいながら、ありがとう、と返事をした僕に彼は微笑みを返す。そして靴紐を結び終えると立ち上がり、つま先で片方ずつトントンと軽く地面を蹴るようにして感触を確かめた後、小口の門を開けて外へ出ていった。
シャプリの方を振り向くと、彼女はまだじっと空を見上げたまま黙って静かに立っていた。音もなく降りしきる雪が、見上げている彼女の顔に次々と舞い降りて、色白い頬の上で雫になって滴り落ちる。それを気にする様子もなく、しばらくして彼女はおもむろに口を開く。
「日本もこんなふうにたくさん雪が降る?」
「いや、僕の街はそんなに降らないよ」僕は答える。「10センチも積もったら、みんな大騒ぎ」
少し驚いたような顔をして彼女は僕の方を見る。
「じゃあ、あなたのお父さんとお母さんがこれを見たらびっくりするね」
「でも、うちの両親の生まれたところは、たくさん降るよ。この村と同じくらい」
「今は別の場所に住んでるの?」
「もう何年も前、今の場所に引っ越したから。シャプリが生まれるよりずっと前のこと」
ふうん、と彼女はうなずき、地面に積もった雪を手にすくいとって軽く握り、それから遠く前方に放り投げる。
「雪は好き?」
彼女は再び同じように雪をすくいとって雪玉を作りながら僕に言う。「私は大好き」
「日本にいる時はあまり好きじゃないけど、ここは好きかな」
「この村が好き?」
「もちろん。それからこの家族が好き。親父さんも母さんも兄弟たちも親戚も友達も、みんな。それから・・・・・」
「それから?」
雪玉を握るために動かしていた両手を止めて、不思議そうな目をして首をかしげ彼女は僕の顔をのぞきこむ。
「特に、シャプリのことが」
いたずらっぽく言った僕に、彼女はとっさに手に持っていた雪玉を顔めがけて投げつける。その後立て続けにいくつもいくつも雪玉を作っては投げてくる。僕も同じように投げ返す。そのうち、本格的な雪合戦の様相を呈してくる。いつものパターンだ。この家の兄弟たちともよく雪合戦をした。雪上プロレスもした。僕も彼らもけっこう本気だった。晴れた日には少し遠出をして一緒に別の村を歩きまわったりした。時々は、屋根の雪かきをしながら、歌合戦や踊り合戦をした。おかげでこの土地の言語で丸々一曲を歌えるようにもなった。ただそれ以降、近所から客人が訪れるたびに、僕はリクエストに応えてその歌を毎日のように披露するはめになってしまったのだけれど。
シャプリは呆れて僕によく言った。
「ヒロは、まるで子供みたい」
いつも弟たちと一緒になって服を破くほど戦ったり、歌ったり踊ったりして。I am big sister.You are small boyだ、と。ひとまわり以上年齢が違う子にそう言われては、頭があがらない。
訪れた当初は、こんな雪深いところ早く出たいと思っていた。出発しようと試みるたびに雪のため交通機関がストップした。早く雪がやんですべて溶けてくれればいいのにと何度も思った。でも日が経つにつれ、いつのまにか気持ちはまったく逆のことを願うようになっていた。 このまま雪がやまなければいいのに、と。
陳腐な願いだ。降りしきる雪は、そう長く続くはずもない。そんなこと、僕だけじゃなく、村人は誰もが知っている。親父さんも言っていた。例年、2月の半ばを過ぎたらもうそんなに雪は降らないと。おそらくこれが最後の大雪なのだろう。再び空に晴れ間が広がった時、それが僕の旅立つ時であり、別れの時だ。そしてやっぱり当たり前のようにその日はやってくる。
屋根からドサドサっと雪の塊が滑り落ちる音で目が覚める。窓のカーテンを引くと、目の前の屋根からぶら下がる数本のつららが目に入る。まだ空は薄暗さを残していたけれど、雪はやみ、雲の姿もなく、気持ちよく晴れ渡りそうな一日を予感させる最後の朝だった。
朝一番のジープで僕は村をあとにする。その時間、いつもはまだ寝ているはずの者たちまでもが起きて、家族全員で見送りをしてくれた。再会を約束して抱き合い握手を交わした兄弟たち。親父さんと母さんの潤んだ瞳と、優しく頬にキスしてくれた後、ついに泣き崩れてしまったシャプリの姿をそれ以上見ていられなくて、さっと振り向いて僕は歩き出した。もう何度も繰り返してきた出会いと別れなのに、胸の奥の方がひどくズキズキと痛んだ。まるで鋭く尖ったつららで心臓を何度となく突かれているみたいに。
幹線道路に出てバスに揺られている間も、空虚な気持ちのまま、僕はぼんやりと車窓を眺めていた。ここに居てほしいと言ってくれる人たちがいて、そこに居たいと思う自分もいて、それでもそれらを振り切って好きになった土地を去り、またどこかへ行く。そうやって僕は、いったいどこへ向かおうとしているのだろう。
3ヶ月前に通った同じ場所の景色はだいぶ様変わりしていた。周囲の山々を覆っていた雪が溶け始めて山肌があらわになり、不毛だった茶褐色やグレーの大地には緑の草木が芽生えている。寒々しかった枯れ木は新たな葉をつけ、場所によっては色鮮やかな花々がちらほらと咲き始めている。街の露店には、ブドウ、オレンジ、リンゴ、メロン、ナシ、ザクロ、スイカ、イチゴ、といったこれまた色とりどりのフルーツが並ぶようになった。大都市の街は、世界各国からの旅行者たちで溢れごった返している。
目に映るすべてのものが色濃くなっていく。
ある街でガイドブックを片手に大きなバックパックを背負った日本の学生パッカーたちの姿を多く見かけた。
4月から新たに社会人生活が始まる人も多いのだろう。
「今夜の便でお先に日本に帰ります。4月からは社会人っすね」
「お互い忙しくなりますねえ。いやあ、ひとまずは長旅おつかれさまでした。気をつけて」
そんな会話をしている彼らの声を耳にして、ああ、もう春か、とふと思う。
2009年、春。
僕にとっては旅に出てから5度目の春だ。
そして僕は日本を離れたアジアの地に今もこうして立っている。
まだ癒しきれない胸の痛みを抱えたまま、もうすぐこのアジアの地にも、再びうだるような熱気に満ちた酷暑の季節がやってくる。
★Asian Cycle Memories ~Slideshow~
・・・・・・・・・・写真をclick!!
アジア再探訪の地、ネパール滞在中のこと。
これまで数年間、ずっと旅を共にしてきた自転車が盗まれた。
気が緩んでいたわけでも、自分自身に油断や隙があったわけでもなんでもない。
宿泊先のホテルに頼んできちんと預けておいたにも関わらず、だ。
数日間の外出から戻って、自転車盗難の話を聞いてからしばらく、まさに放心状態に陥った。怒りたいのか、泣きたいのか、あるいは開き直って笑いたいのか、それもよくわからなかった。怒るのはもともと好きではないけれど、仲の良かった宿のレセプションのおばちゃんの自分以上に青ざめた表情を見たら、怒ろうにも怒れなくなってしまった。それでも随分きつく当たった。おばちゃんはほんとに気を病んでしまった。
宿のオーナーが海外出張で不在のため、普段は彼女一人で切り盛りしている。が、雇われの身であるためか、あまり権限はない。オーナー家族と親戚たちが宿の前の大きな家に住んでいたので、彼ら全員を巻き込んで、ツーリストポリス立会いのもと、この事件の解決について話をすすめた。
ネパールに流れるゆったりとした時間の流れや空気、人々の雰囲気は好き。すべてがビスターレ、ビスターレ。ゆっくり、ゆったり。でもトラブルが起こった場合でもそれが変わらないのが非常に困るし、今度は苛立たしくなってくる。2,3日で終わる話が10日以上かかったりする。他のネパール人たちが笑って言うに「This is Nepali Style」だと。ネパールのビスターレ・カルチャーの良さも場合によりけりだ。
やたらと長く感じた10数日間ののち、ホテル側は責任を認め、定めた期日までに犯人が見つからない場合、賠償金を支払うことで話の折り合いがついた。後日、おっとりした感じのオーナー夫人から本当に申し訳なさそうに謝罪の言葉といくらかのドル現金が渡されて、一応の解決、となった。お金の問題というわけでもないし、自転車のなくなった今後のことなんかを考えると、自分自身ではちっとも解決ではなかったけれど。
まぁ、仕方ない。
起こってしまったことは、もう起こってしまったことなのだ。
それにしても、実にあっけない自転車との別れだった。
まるで、ある日、いつもと同じように目覚めた朝に姿のなかった彼女が、それきり二度と帰ってこなくなったみたいに・・・・・・。
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~Slideshow~(上記写真をクリック・音楽が流れるのでボリューム注意)
自転車の写っている写真を探して整理、一部を使ってスライドショーにしてみたが、長い旅の期間の割に写真の数が少ないことに気づく。さらに「自分と自転車」より、「アジア各地の子供たちと自転車」という写真が多かったりすることに気づいた。
※メールやコメントの返事がなかなかできなくてすみません。
時間はかかっても必ずしますので、しばしお待ちを。
★アジアの旅は終わらない
今年に入ってから、トルコを起点にシリア、ヨルダン、イエメン、アルメニア、グルジアと旅してトルコへ。最近はちょっとヨーロッパ方面に足を踏み入れて、ブルガリア経由でルーマニアなんかをまわってたんだけど。途中で切り上げてまたトルコへ戻ってきた。
アジアに戻ろうかな、と思う。
この旅も3年9ヶ月が経過した。ほぼ4年。自分だとあっという間で、ちっともそんなに費やしてる気がしないのだけれど、傍からみるとそれはやはりとても長い時間なのかな。
3年半から4年くらいで世界一周いけるところまで、と最初は思っていたけれど、世界はやっぱり広すぎる。旅の序盤の時点で、こんな感じになることは多少予想がついていたけれど。
アフリカやら中南米やら、行きたいところはまだまだたくさんある。でも旅に出る前に焦がれていたほど行きたいかというと、現時点ではそうでもない。アジアの魅力がまだまだ尽きないこともあるし、単純に新しいものがこれ以上受け止めきれない心のキャパシティの問題もある。
アジアに戻ることを考え始めたのは実はだいぶ前からのこと。その時はまだなぜ自分が「先へ進む」のではなく、「戻ろうとしている」のかがよくわからなかった。そこには感傷的な気持ちからくるものが多分にあって、それじゃぁ何も意味がないんじゃないかという気がして。それからまたしばらく時間をかけて、心の中で自然な形で結論が出るまでは先へ進む(新しい場所へ向かう)ことを選んだ。
そうした流れの中で、結果として、好奇心が「アジアへ戻る」という方向へ向いていることを自覚した、ということか。「(アジアへ)戻る」ことが、すなわち「(先へ)進む」ことなんじゃないか、って。
アジアに戻ることについては、訪れる場所によっては2年半、3年という月日が流れてる。
あれから何が変わって、何が変わっていないんだろう。
自分もまわりも。
少なくともきっと前とまったく同じではないと思うし、同じものを求めてもいない。
「アジアへ戻る」のだけど、それはあくまで「新しいステージ」として臨みたい。
それは「最終の」、という意味でも。
ほかにも話したいことはたくさんあるけれど、ひとまず先へ進むことにする。
また新たな気持で。
最終ステージ、アジア再探訪の旅の始まり。