昭和30年頃、高校時代に浦上天主堂を訪れた事がある。信者によって建造されたレンガ創りの天主堂は4隅のレンガ柱を残し廃墟と化し、周囲には鉄条が張られ人の立入りを拒んでいた。堂内の瓦礫の下から雑草が生え伸びていた…。
廃墟を保存すべきか、否か。議会でも論争になったが…。しかし、行政側は(アメリカの意向があったかどうか定かではないが)代替え地は用意されず、同地に昭和34年に再建された。
キリスト教を信じ手を合わせる人を浦上の人々を、何故、神は救えなかったのだろうか。
B-29に搭載した原爆を海中に落下させる事も出来ない神……。
昭和21年8月9日廃墟の天主堂跡で原爆1周年慰霊祭が行われた。追悼ミサの言葉に 『神は、天主は浦上の人を愛してるがゆえに浦上に原爆を投下した……』とある。
乳飲み子も子供達も一瞬のうちに命を絶った。原爆を落とすか、否か。人を殺すか、否かは人間の
心の問題であろう。
現在も宗教の違いによる争も続いているが…。
地球上の各地で人類が生活し、やがて、集団化しそこには心の救いとして宗教が発生した。
1民族1宗教の時代には争いは無かったのだが、人口が増加し生活圏を求めて民の移動が始まり、文明の発達により移動手段が容易になり,現在では、人々が入り交じって生活をしている時代になった。それは、宗教の違った人々が混じって生活する事になっている。
宗教戦争を無くすには、統一宗教にすれば良いのだが、それは不可能である。
何故か、それは、各国、各民族の各個人の心の支えとして日々の生活に密着しているからである。
宗教の違いによる争いを無くす為には、超宗教的で万人が納得する教理が必要だと思う…。
それは『貴方は貴方の意思によって、貴方の家に、貴方の国に生まれて来たのですか』と云う問から始まるのである。