ツイッターで見ましたが、阪神や東日本の震災で被災した体験を持つ人の「これは要らない」と思ったものの意見の中に「千羽鶴」があったってことで、これを勝手に「熊本の人の意見」と勘違いした人が「熊本県民何様」みたいな批判ツイートをしているというのですが。
批判側の意見のほとんどが
「送った人のことも考えろ」
みたいな感じだったんですが、何故、被災して困っている人を上から見下すような意見になってしまうのでしょう。
あのですね、よく考えてみてくださいね。
被災して困っている人は何が今一番困っているのかって、物資がなかったり、住むところがなかったりといった現実的な部分であって、そこを援助して欲しいわけですよ。
なのに正直「再利用もできない紙の束」でしかない千羽鶴が大量に届いたところで、何が嬉しいと思いますか?
それをわざわざ折ってくれた子供達の気持ちが嬉しいだろう?って?大変なこの状況で他人を思いやれ、と?
いや、そういうのはそもそも子供達の発想ではないはず。もしそうだとしても、今、このタイミングで千羽鶴を贈るのは本当に被災した人のためになるかどうか考えさせるのも教育じゃないでしょうか?
お金じゃない援助を子供にさせようと思ったとしたって、もっと他にできることはあると思うのです。お金じゃない、と綺麗ごとを言ったところで、実際一番必要なのはお金なので。
被災者のために何かしたい、と子供達が言ったなら、募金活動させたっていいと思います。ボーイスカウトとかでもやってるじゃないですか。なぜ「ぼくたちわたしたちのできること」がいとも単純に「千羽鶴」って発想になるのかっていうと要は募金活動って、面倒だからなんですよね。許可とか手間とか。
千羽鶴なら楽だからね。
例えば病気で入院して何もかもケアされている人に「頑張れ」と励ましで千羽鶴を送るのとは意味合いが違うわけです。
震災が起きるとこういった「相手の立場を全く思いやらない人からの善意の押しつけ」がいつもいつも話題になるんですけど、なぜこういう人たちはそういった過去から学ぼうとしたり、反省をしたりしないのか謎です。
善意というのはある意味独りよがりの行為。「自分が」よかれと思ってするわけですからね。
相手のことを思ったら今まだ余震が続いて避難生活が続いているこの現状で千羽鶴贈ろう、なんて考えないでしょう。飾って心が和むだろう?って?それこそ相手のことなんか考えてないだろと思う。処分とかどーすんだ、あんなの。
自分だったら嬉しいですか?そりゃ嬉しいは嬉しい、心配してくれているのも分かる。けど、違うんだな……うん。って気持ちになるんじゃないですかね。
大変な目に遭っている人に気を遣わせてしまうような贈り物は「善」ではないと思います。
あとね根本的に、「千羽鶴要らない」って言ったの熊本の人じゃないっていう話ですよ。ええ。