2019年9月16日
先日のフィリピンの旅で、僕が今一番大切にしている3人の若者にしみじみ語ったこと。
いささかお酒は回っていましたが、僕は彼らに、
「もう僕はそれほど長生きはできないと思う。
死ぬまでにカワセミクラブをしっかり育て、後継者も育てておかなければならない。
君たち三人に僕は非常に大きな思い入れ、期待をしている。
だから、これから僕が死ぬまでの間、しっかり僕について来てほしい。
僕の思いをしっかり理解して、僕の死後も弱者を支える仕事をしてほしい。
僕が死ぬまでついて来てくれるか?」と。
聞き役は二人のフィリピン人と一人の日本人。
フィリピン人の一人は、付き合いがもう10年になるR.。
もう一人は、子供の時に両親を失い、貧乏のどん底にいた性的少数者で、TカテゴリーのM。
そして日本人は、今年の1月から仕事を一緒にやり、時を共に過ごすことが多くなったT君。
3人それぞれが、僕の話にうなずき、いちおう「ついて来る」ことに同意。
考えてみれば、最近の僕はこの3人,あるいは3人のうちの誰かと共に過ごしているときが一番の幸せで、
年を忘れて、希望がわき、勇気がわき、生きていることがうれしくなるのです。
それゆえに「死」を強く意識するのです。
僕の死はこの大好きな3人と別れることです。
今の幸せを思うと、絶対にまだまだ死にたくもありません。
しかし、死の縁はどこに潜んでいるか分からず、当然やってきます。
先日、98才の知人が、自宅の前で交通事故にあって突然逝去されました。
10日程前には、「来年99才です」と元気に語っておられました。
その数日後、知人の息子さんが34才で自ら命を絶たれました。
そう、死の縁はいつどこで姿を現すか、誰にもわかりません。
余命を考えたとき、僕もいつその縁と結ばれるかもしれません。
だから僕は、多少の酔いはあったものの、この3人に真剣に語りかけたつもりです。
僕をど真剣にさせて、彼らに語らせたものは「愛」であると思います。
R,M,T くれぐれもくれぐれもよろしく頼むという思いです。