我慢できなくて、書いちゃいますわ。


先ず最初に、

俺は自分を、サドともマゾとも想ってない。

他の人がなんていうかは知らない。


この文章は、前回の記事に続いて、

自分の中の扉を今の時点で何枚か開けた俺が書いてるもので、


これみて、扉をもっと開けてるヒトがなんていおうと、

扉を見ないで済んでるヒトがなんていうかとか、そういうのもどうでもいい。


例えば男性器が女性器という器に収まることで、快楽が発生するのなら、


確かに、加虐性が嗜虐性に収まって得られる、快感が存在する。


それは目に見えない分、例えば愛情や恋慕と同じくして、

定義しにくいものだし、安定的なものじゃない。


となれば、身体が具体的であるのに、精神が抽象的なのと同じように、

唯物論が信仰される、今の世に在って普遍的でないのもまた確か。



心には抽象的な形がある。


それは不変的な形ではないけども、

長い年月を経て形成されたその形っていうのは、人それぞれで、

分類はできるかもしれないけど、分類的に個を語るのは、大きな間違いだとも想う。


そんな中で、

『欠けた』、或いは『損なわれた』部分と、『余った』、或いは『肥大化』した部分を、

それぞれに持つヒト、或いは、両方を持つヒトが居る。


前述の通り、

この部分を性器に喩えるのなら、それを結合させることによる快楽があるのも、

また絶対ではない事実なんだと想う。


一昔前、ソフトSMが流行した。

別に個人が何をどうしようと、他人に迷惑を掛けなければ、何をやってもいいと思うのだけど、

結果としてのSMってのは、行為が先にあるわけじゃなく、

結果としての行為があるんじゃないかなと想うわけで。


両者には悲しいほどの差があるんだと思う。


まあ、SMについて専門書を読んだこともないし、サド伯爵の物語も知りはしないけど、

世の中、知らないで済むのなら、知らない方が好いことはたくさんあると想う。

別に、自分の中にかを悲しんでるわけもなく、

今在る自分が、全てであり、それしかないのだけれど、


自分の形が歪に特異になれば、なるほど、

生き難いのは確かなわけで、

所詮は、そんな自分の心の境界線を、他人にどう見せるか?という問題でしかない。


また、表題のテーマとは脱線しているが、

やはり、ヒトの心の形というのは、見ていて飽きるものでなく、

時として芸術品のようだなと想う。


人一人の人生を掛けて、粗悪な模造品しか作らない人々もいるけど、

人生を掛けて、自分を創る人々の心は、側にいることで自分にも大きく影響を与える。


物質社会の中にあって、その限界が語られだして随分になるが、

目に見えないものを軽んじる世相の中で、

目には見えない人々が発信している、ネットというもう一つの現実に、

改めて、発見することが多い。


性器なしには成立しない、セックスと。

モニターの向こうに居る人間、情報を認識しようとする心の動きは、

まったく逆の人間の作用を教えてくれる。


時として、現実で接するよりもはっきりと、心の形を映し出しているヒトも居る。


ネット上での交流というのは、無意識の結果として、

現実でのSMと同じように、心理的な触手のやり取りなのかもしれない。

ただ、一つ恐ろしいのは、現実のSMで相手の反応を現実的に見て、心の触手を侵食させるのと、

見えない相手に、侵食させるのでは、その難度が全然違うものだということ。


顔の見えない相手に対して行う、仮想の行為は、

自分を写す鏡なのかもしれない。


僕は、そこに映った自分の姿をみて、加虐性と、嗜虐性、その両方が自分にあることを識る。


嗜好で相手を加虐したいのではない、結果として加虐し、加虐されるのだ。



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わっかい頃、創作文章なんてまだ1回も書いてなかった頃、

きっとあの頃の俺は、こんなことばかり書いていましたね。


論文大好きでした。