マルクス・アウレーリウス 自省録
自省録 (岩波文庫)
- 作 者: マルクスアウレーリウス
- 訳 者 神谷美恵子
- 発行所 岩波書店
- 発売日: 1956年10月25日 第一刷発行
第六章
三一 正気に返って自己を取り戻せ。目を醒まして、君を悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ。
三二 私は小さな肉体と魂から成っている。肉体にとってはすべてのことはどうでもいいことである。なぜなら肉体はものごとを気にかけることができないからである。精神にとっては、すべてその活動に属さないことはどうでもいいことであるが、すべてその活動に属することはその勢力範囲にある。ただしその中でもただ現在に関することのみ問題になる。というのは未来および過去の活動は現在やはりどうでもいいことなのである。
三三 足が足の分をなし、手が手の分を果たす限り、手や足の労働は自然に反することではない。同様に人間が人間の分をなすかぎり、人間として人間の労働は自然に反することではない。もし人間の(うちなる)自然に反することでないならば、彼自身にとっても悪いことではない。
三四 強盗や放蕩者や父親殺しや暴君はいかなる快楽を味わったことか。
三五 工匠たちはあるところまでは素人に調子を合わせるが、そのために彼らの技術の原理にそうのをおろそかにするようなことはなく、これから離れるのいさぎよりとしない。この事実を君は見ないのか。建築家や医者が自分の技術の原理にたいしていだき心のほうが、人間が自己の理性・・・・・・それを人間は神々と共有するのだが・・・・・・にたいしていだく気持よりももっと敬虔であるとは、ふしぎなことではないか。
三六 アジア、ヨーロッパは宇宙の片隅。すべての大洋は宇宙の中の一滴。アト―スの山は宇宙の中の小さな土塊。現在の時はことごとく永遠の中の一点。あらゆるものは小さく、変りやすく、消滅しつつある。
万物はかしこから来る。すなわち宇宙の指導理性からあるいは直接これに動かされて来り、あるいは因果関係に従って来る。したがって獅子が口を開けたところや、毒薬や、とげや泥のごとくすべての有害なものは、かの尊ぶべきもの、美しきものの結果にすぎないのである。ゆえにこれらは君の敬うものとは別のものだと考えてはいけない。あらゆるものも源泉を考えよ。
三七 現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。
三八 宇宙の中のありとあらゆるものの繋がりと相互関係についてしばしば考えてみるがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
三九 君の分として与えられた環境に自己を調和せしめよ。君のなかまとして運命づけられた人間を愛せ。ただし心からであるように。
四〇 器具や道具や容器などは、そのこしらえられた目的を果すならば皆上出来なのである。しかしその場合これをこしらえた者はそこにいない。ところが自然によって組立てられた物においては、これをこしらえた力はその中に存在し、そこにずっと留まっている。だから君はこの力をもっと救わなくてはいけない。そしてもし君がその意思に従って身を持し、かつ行動するならば、すべて君の中にある者は君の叡智のままになるであろうことを自覚しなくてはならない。同様に宇宙の物は宇宙の叡智のままになるのである。
四一 自分に選択の自由のないものについて、これは自分にとって善いとか悪いとか考えるとすれば、こんなに悪いことが身にふりかかったとか、こんなに善いことが失敗したとかいって、君はきっと神々にたいして呟かずにはいないだろう。また他人がこの失敗や災難の責任者であるといって、またはその嫌疑があるといって、人間を憎まずにはいないであろう。まったくこのようなことを重大視することによって我々は実に多くの不正を犯してしまうのである。しかるにもし我々が自分の自由になることのみを善いとか悪いとか判断するならば、神に罪を被せる理由もなく、人間に対して敵の立場を取る理由ももはや残されていないのである。
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カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus |
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121年4月26日 ~ 180年3月17日(58歳没) |