蒲池鑑盛(その9) | ドリップ珈琲好き

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主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

蒲池城

 

 有明海にに面した筑後川河口に近い蒲池という沼や池の多い場所に、のちに蒲池城とよばれることになる砦が構築されたのは、おそらく藤原純友が九州へやって来て敗走するまでの間、すなわち天慶四年一月から五月にかけてのことであったろう。

 筑後川を舟でさかのぼり、久留米から支流の宝満川をたどっていけば、直接大宰府にいたることができるが、逆にいえば、大宰府から川伝いに直接蒲池が攻撃をうける可能性もある。

 敵をさえぎる山も岡もない地形であるから、人工の城砦をつくって防ぐしかない。

 城砦を築くには、当然のことながら地元の協力なしにはできないことである。蒲池に城砦を備蓄できたということは、蒲池氏をはじめとする地元の土豪や有明海の海人たちとの間で、何らかの盟約関係が成立していなければならない。

 享保七年(一七二二)に蒲池豊菴(豊卓)によって書かれた『蒲池物語』によれば、

「筑後夜明庄三潴郡蒲池邑城の濫觴を尋ぬるに、往古、天慶の初め、伊予掾一族の築きたる城なりと言ひ伝ふ」

 とあり、蒲池城は天慶年間(九三八~九四七)に伊予掾一族、つまり藤原純友の一族によってはじめて築かれたという伝承が記されている。ただし、宝永年間(一七〇四~一七一一)に平山素閑によって書かれた『前太平記』巻十「筑後国柳川城軍事」の「天慶四年の条」には、

「太宰大弐公頼は、昨年夏より筑後柳川に座せしが、純友が舎弟、前の右衛門佐純乗、一万余騎にて押し寄せ、城の四方を重々に囲みて、食攻めにこそしたりけれ」

 と書かれており、柳川の城を拠点にしていたのは太宰大弐の橘公頼で、城を包囲して攻めたのが藤原純友の弟藤原純乗であるとされている。残された系譜によると、藤原純友は藤原良範の子で八人兄弟の三男であり、長男は純春、次男は純美、(三男・純友)、四男は純乗、五男は純正、六男は純素、七男は純行、八男は純業とされており、純乗は、純友のすぐ下の弟である。

 

 蒲池城趾の碑

 

 『前太平記』には、大宰府勢が籠城したのは蒲池城ではなく柳川城と書かれているが、『南築明覧』では、柳川城の原型となる砦がはじめて築かれたのは、ずっとのちの時代の文亀年間(一五〇一 ~ 一五〇四)とされている。『前太平記』が書かれた江戸時代には蒲池城はすでに取り壊されていたため、一般に知られている柳川城に置き替えたのであろう。

 このように、『前太平記』には、やや信憑性を疑わせる記事もないわけではないが、蒲池に城を築いたのは、藤原純乗ではなく、大宰府方であった可能性が高い。

 いずれにせよ、「藤原純友の乱」を契機に、蒲池城の原型がつくられたのはまちがいない。

 ところが、藤原素も友の乱はあっけなく鎮圧されてしまい、無用となった砦だけが残された。

 せっかうつくられたこの砦を放置することは、いかにももったいない。そこで、蒲池村の村長の居宅として利用することにした。

 『蒲池物語』によれば、

「その後、蒲池の村長某という者、この城に住して近郷を従がえ、人を懐けてしだいに家富み、勢いあり」

 というように、平安時代から鎌倉時代にかけて、古代氏族につらなる村長が、蒲池氏を名乗り、世襲しながら住みつき、しだいに力をすけてきたのである。

 これが、蒲池氏の起こりである。

 

 以上 「筑後争乱記 蒲池一族の興亡」 2003年3月15日発行 著者 河村哲夫 発行 海鳥社 より