蒲池鑑盛(その8) | ドリップ珈琲好き

ドリップ珈琲好き

主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

藤原純友の乱(2)

 

 朝廷から藤原純友追討命令が発されたことに憤激した藤原純友は、ふたたび海賊行為を開始した。

 八月中旬に四百隻の船団で伊予・讃岐を襲撃し、八月二十八日には備前・備後の兵船百隻を襲撃するなど瀬戸内海東部を荒らしまわった。

 ただし、朝廷軍の本格的な反撃の前に、純友軍はしだいに瀬戸内海の西部方面への退却を余儀なくされた。

 十二月七日には周防国の鋳銭司(官営の鋳銭所)や長門の官舎を襲撃し、十二月十九日には太平洋側の土佐国幡多郡を襲撃したものの、天慶四年になると劣勢が明らかとなり、二月には瀬戸内海東部地域が朝廷軍に奪還され、やむなく藤原純友らは西瀬戸から北部九州方面へと軍の主力をうつした。

 北部九州には宗像や志賀島、松浦、壱岐、対馬、五島、有明海などを拠点に、古い時代に起源をもつ多くの海人たちがいた。藤原純友はこれらの海人勢力との連携を深めて、再起をはかろうとしたのである。

 北部九州は古代から海外貿易の拠点であった。『本朝世紀』には、海賊になる前の藤原純友について、

「兵を率いて大海へ出たいと望んでいた」

 とあるとおり、かねてから大海への評価を抱いており、そのためには北部九州を制覇する必要があった。

 この当時、海外交易は大宰府政庁がとりしきっており、中国から貿易船が博多に入港すると、ただちに政庁の管轄下に置き、密貿易がおこなわれないよう積み荷も封印し、商人たちを博多にあった鴻臚館につれていき、そこに寝泊まりさせていた。その間、朝廷から派遣された蔵人や大宰府の役人たちは、積み荷の検認をおこない、政府の優先的な買い上げ品目をきめた。残りの商品についてももちろん取引の対象となるが、大宰府の役人や西海道諸国の官人たちが独占的に買い上げてします。一般の商人が参入できる余地はほとんどなかった。

 平将門のの反乱の根底に土地に対する自由な支配権の欲求が潜んでいるとすれば、藤原純友の反乱の根底には自由な海外渡航、貿易への欲求があったように思える。

 自由な航海と貿易をおこなうためには、九州の拠点である大宰府政庁を制圧する必要があった。

 藤原純友らの軍船は五月になると博多に到着し、『日本紀略』によると、五月十九日に大宰府を攻撃したという。

 このとき、大宰府政庁の都府楼が焼失した。純友軍は大宰府政庁を陥落させたが、ちょうどその日に朝廷軍の主力が海陸から博多に集結していた。

 陸路朝廷軍を率いてきたのは小野好古という人物である。歌人で有名な小野篁の孫にあたり、また、大宰大弐葛鉉の次男で、文武に優れた人物であった。

 朝廷軍が海陸から博多に押し寄せて来たので、藤原純友は大宰府から博多にもどろ、朝廷軍と対決した。

 この戦いにおいて、純友軍は壊滅的な敗北を喫し、郡千八百隻が撃破され、数百人の兵士が負傷した。純友軍はかろうじて船二隻で海に遁れ、玄界灘から響灘にむかい、そこで船を捨て、陸にあがって行方をくらました。京都にむかったのではないかというような風説も流れたが、純友は本拠地であった伊予の日振島へ逃げ帰っていた。

 そして一ヵ月後の六月二十日に伊予国警固使の橘遠保によって弓で射られ、斬殺された。

 平将門の乱と藤原純友の乱をあわせて、「承平・天慶の乱」とよばれる。二つの乱は、共謀のうえ決行されたとする説も少なくない。『続群書類従』所収の「将門純友東西軍記」によると、藤原純友は平将門と二人で比叡山にのぼり、京の都を見下ろしながら、

「将門どのは正孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白となろう」

 と豪語したという。北畠親房の『神皇正統紀』には、

「藤原純友という者、かの平将門に同意して西国にて謀反を起こした」

「将門は比叡山にのぼり、大内を遠望して謀反を企てた」

 などと書かれ、平将門と藤原純友が共謀したとする説も古くからあるが、これまでのところ確定的な証拠はないようである。

 

以上 「筑後争乱記 蒲池一族の興亡」 2003年3月15日発行 著者 河村哲夫 発行 海鳥社 より