筑前國續風土記拾遺巻之(八)第四回 | ドリップ珈琲好き

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主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

筑前國續風土記拾遺巻之(八)

 

博多寺院(上)

 

天福寺

 

萬境山と号す。禪宗濟下聖福寺の末寺也。開山を高陽和尚と云。四條帝の天福元年に開基すといへり。 此寺号年号を用ひし事疑ひ有といへとも姑く傳説に従ふ。 始ハ東長寺の北隣に有しを承應三年忠之公逝去せられ、東長寺に葬り奉らるヽに寺内狭かりし故、當寺の地を彼寺域とし、其代地として龍宮寺の境地及奥堂町の商家の内を合て 表口二十間 賜りて當寺を今の所に移せり。寺内に観音堂有。此地藏ハ昔博多七堂の其一也。 此堂初奥堂町に有。其地に今も其址を形はかりん殘せり。本尊ハ地蔵 城下六地藏第二番 なり。相傳ふ。いつれの時にか此津に六郎知景 幼名童子丸姓氏不詳 といふ人有。

 

光西寺

 

萱堂山と号す。禪宗濟下聖福寺の末寺なり。本尊ハ地蔵 城下六地藏ダウ二番 なり。いつれの時にか此津に六郎知景 幼名童子丸姓氏不詳 といふ人有。其母深く地蔵を信しけるか、死に臨みて記念に鏡一面を留む。後に知景亡母の為とて此鏡を以て地蔵の像 長二寸四分 を鋳て肌の守とす。一時徳政の宣下ある由を聞、由緒有古文書等、家に持傳しを鎌倉へ持参して訴訟しけれは、二三代隔て知行をさりし本領安堵を賜ハり帰國しけるか、舟路にて誤て守袋を海中に落し入ぬ。知景仰俯して歎悲しみ安藝の厳嶋に詣て、再び尊像を我手に入しめ給へと祈り、長州赤馬関に着き同船の人に酒を勧めんとて、鮫と云魚を買取割けるに、腹中より彼守袋を得たり、知景大に悦ひ博多に帰り此寺を草創して本尊に安置す。因て魚腹地藏と云。 但今の本尊と別也。是ハ弘法作也。宰府戒壇院比丘寄附すといへり。 説に開山ハ心月和尚と云。 知景か事ハ地藏霊験記 第七巻 にも詳に載たり。 霊験記十二巻刊行す。全部此寺にもあり。 舩人等海上の無難ならん事を禱り符を此寺に請るもの多し。寺内に太神宮 観音堂 太師堂 太師堂及勝軍地藏石像有。

 

真空庵

 

尼寺なり。禪宗妙楽寺に属せり。本尊ハ正覲音也。開基を妙總禅尼と云。妙樂寺お開山月堂和尚の高徒省吾禪師の母なり。 延文四年十一月三日歿す。今に至て忌日には弔ひをなせり。此庵始ハ藏本番 妙音寺の地 に有しを、忠之公尼僧を今の處に移し給ふ。境内に地藏堂有。

 

妙音寺 住吉ハ妙應寺といふと安永の書上ケに在。

 

臨江山梅照院と号す。天台宗江州比叡山延暦寺の末寺にして福岡の源光院の配下なり。本尊の正觀音ハ 坐像長四尺唐佛 博多七觀音の一にて國中霊佛巡礼第五番の札所也。又沖の濱觀音共称す。此寺創立の初詳ならす。天正年中兵火に堂社焼亡せし後、住持もなく尼寺と成たりしを承應二年忠之公の命にて尼僧を片原町 櫛田社後今の真空庵 に移し、良悦と云僧を此寺の住持とし天台宗となし給ふ。此地ハ福岡城の鬼門に當れる故祈禱所として建立し給へりと云。 良悦ハ大宰府華臺坊より此寺に入院し、後に源光院の住職と成る。本編に真言僧良悦と有ハ誤り也 此時寺産四拾石を寄附し給へリ。一説に此寺初ハ妙總禅尼寺といひて承天寺の尼寺なり。妙樂寺の開山月堂の高弟無我省吾禪師の母尼と成て此寺に住せり。妙總尼是なり。 又一説に此寺ハ貞久といへる尼の建立なり。元禄十年二世良願貞久が建置し堂を解き其材を以観音堂を建替しともいへり。 寺内に秋葉社有。又槐木一株有。妙總尼の墓表なりといふ。此尼は延文四年十一月三日寂せり。

 

行願寺

 

海印山普賢院と号す。比叡山延暦寺に属せり。妙音寺の開基良悦當寺を建立して宰府六度寺の僧傳賀を招きて第二世とす。 傳賀ハ後に筑後國北野天満宮の社僧となる。一説に二世良秀三世良勇とす。 初ハ山号を清江山といひしか、元禄六年日光御門跡より今の山号寺号を賜ハりしと云。寺内に天満宮 観音堂有。

 

 天福寺

昭和58年、福岡市城南区南片江に移転。

 

 行願寺
昭和62年、福岡市博多区須崎町に再建