鯖江藩ゆかりの松阜(まつがおか)神社において、鯖江藩第7代藩主間部詮勝公の顕彰祭が行われました。

間部詮勝公の顕彰祭につきましては、これまで西山公園の詮勝公胸像前で執り行われてまいりましたが、昨年から、ここ松阜神社に場所を移して開催されております。



この松阜神社の境内は、かつて詮勝公とそのご家族が住まわれた集仙亭松阜御殿の跡地であり、明治維新後に、旧藩主間部家を慕う鯖江町の人々によって、ここに松阜神社が創建されました。

まさに、詮勝公の遺徳を偲ぶ舞台として相応しい由緒と歴史を有する場所です。

また、本日8月27日という期日も、藩祖間部詮房(あきふさ)公の命日にちなんだ日であるとお聞きしております。



鯖江藩の礎を築いた詮房公ゆかりのこの日に、松阜神社において顕彰祭を執り行うことは、誠に感慨深いものがございます。

間部家初代詮房公は、第6代将軍の家宣が、まだ、徳川綱豊と称して甲府にいたときに仕え、綱豊が将軍に就任すると側用人、老中格として権勢をふるい、家宣、家継の2代に亘り、新井白石と共に「正徳の治」を断行するなど、幕政を主導した名君で、1710年に上野の国高崎藩主に就任しました。

1716年家綱が幼少のまま病死、徳川吉宗が8代将軍に就任、詮房公は側用人を解任され、1716年には越後の国村上藩に転封されました。

1720年詮房公が死去、長兄詮房の養嗣子詮言(あきとき)公が、鯖江藩初代藩主として鯖江の地に来られました。

石高は減封(げんぽう)されなかったものの、間部家を城主大名から無城大名に降格させた上、実質的な収入も減らすという、いわゆる左遷であったようです。

来年は、享保(きょうほう)5年(1720)に鯖江藩が成立してからちょうど300年に当たる記念すべき年でもあります

当時の西鯖江は幕府の代官陣屋が置かれていただけの一寒村で、石高800石、家数27件、人口200人余り、鯖江に、越後村上から国替えとなった間部家のご苦労は、様々な文献に残されております。

五万石の領地は、今立郡33カ村、大野郡11カ村、丹生郡14カ村に分かれたまとまりのない領地でありました。

その後、東鯖江村の小浜藩と別司村、寺中村、小坂村の領地替えもあり、家臣団の編成やまちづくりは大変だったようです。

今日の鯖江市の繁栄の基礎を築いたのは、当時、農家に分宿しながら城下町の建設にまい進された、間部家とその家臣団の皆様のご尽力の賜物であり、城下町の形成に約8年の年月を要したとあります。

このような中で、詮言公は失意のうちに35歳で江戸芝の三田邸にて死去されました。

こうした鯖江藩の歴史を市民の皆様に知っていただくために、来年10月頃に、まなべの館において「鯖江藩立藩300年記念企画展示」を開催するほか、関連事業を計画中です。

折しも、来年は鯖江市制施行65周年にもあたる記念の年、市民の皆様と共にお祝いをしたいと思います。

本市では現在、持続可能な開発目標SDGs推進に向けた取り組みを行っておりますが、やはり町づくりの根幹となるものは、その地域が持つ固有の歴史と文化です。

鯖江藩間部家の皆様が培ってきた歴史をこれからも守り継承してまいります。

今回の顕彰祭を主催されました「間部公をたたえる会」の岸松会長様をはじめとする会員の皆様の日頃からのご尽力と、佐々木宮司様をはじめとする松阜神社関係者の皆様に対し、心から敬意を表しますとともに、深く感謝を申し上げます。

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