ヴェニスの法廷で裁判が始まろうとしています。借りた3千ダッカットを2倍の6千ダッカットにして返すという、バッサーニオが提示した和解案をシャイロックは吞みません。どうしてもアントニオーの肉1ポンドをもらうと言い張るからです。

すると法学博士に男装したポーシャが入廷します。彼女はこの裁判の裁判官を務める筈だった従兄のベラーリオー博士に頼んで、病の床に伏しているため自分の代役をこの若い法学博士に任せたいという内容の手紙を書いてもらってきたのです。

原告のシャイロックと被告のアントニオーのふたりが前に進み出てヴェニスの公爵に一礼して裁判が始まりました。ポーシャがシャイロックに慈悲を示せと言います。シャイロックは何故そんな必要があるのかと反問します。その理由をポーシャが答えます。

 

第四幕第一場

The quality of mercy is not strain'd,

慈悲の本質は強いられて行うものではない。

It droppeth as the gentle rain from heaven

それは天国から地上に降り注ぐ

Upon the place beneath: it is twice blest;

恵みの雨の如きもの。それは二重に祝福される。

It blesseth him that gives and him that takes:

つまり慈悲を施す者も受ける者も。

 

 ポーシャの返答は素敵な内容です。しかしそもそもこの裁判はインチキです。法学博士でも何でもなく、その上、被告の親友の妻であるポーシャが裁判官です。公平が保たれていない『東京裁判』です。法学博士たる者がいくら従妹に頼まれたからといって、その資格もない者を裁判官に仕立て上げるなんて、まるで吉本新喜劇です。だからこの劇は喜劇に分類されているのかと思っちゃいます。

 

 劇の中のことなら出鱈目でも茶番劇と笑って済ませられますが、現実の世界が出鱈目だと悲劇と呼ぶしかありません。

 出鱈目なデータを基にギャーギャー騒ぎ、視聴者に恐怖を煽り続けるマスメディア。本当に緊急事態なら開催どころではない筈なのに、「安心・安全」としか言わないガースー・アルツハイマー・ムッソリーニ総理に担保されたオリパラ。国会議員や日本医師会の会員は何人集まっていつ飲酒しても、五輪貴族と総理と都知事が「おもてなし」と称して歓迎会を開いても良い一方で、飲食店は営業時間を制限され、お酒を出す店は営業自体が許されず、自由な行動が認められない都民、運動会も修学旅行も出来ない全国の小中学生や甲子園大会出場を突然中止される高校球児。この待遇の違いはなんなのでしょう。特権貴族と平民の違いそのものですね。いつのどこの話ですか。

 いつでも上段のお奉行様の横に座り、裁きを言い渡す側の上級国民と、常にお白州に座らされ、下手人でもないのに、お沙汰はもしかすると死罪になるのではと怯え続ける庶民。この悲劇の舞台は古代ローマでもファシズム体制のイタリアでもなく、令和3年の日本です。

 現在私たちは、一刻も早く覚めたい悪夢を見ているのです。