この土日は、地域の敬老会に寄せてもらいました。
75歳以上の方が参加される敬老会の壇上で、小さいころ、両親共働きで、しょっちゅう祖父母のところに行っていた私たち姉妹の幼いころを思い出しました。のんびりとしたペース、多少何があっても怒らない、しかしムカデがいたらメッタ切りにする。おじいちゃんのあぐら、おばあちゃんの背中…。親とは違い、ありのままを平然と受け入れる、なんだかほっとする存在だったのですね。今思えば。
特に今の時代、そういう癒しの存在って大事やなあと思います。「昔のように動けない」と嘆いている方も、どうかご自身の存在そのものが大事なんだと思ってくだされば…そんな思いを込めてごあいさつしました。

土曜日は、重度障害者の通所施設「市立障害者支援交流センターあいほうぷ吹田」のあいほうぷまつりに寄せてもらいました。
他市ではなかなかない、医療的ケアが必要な重い障害の方も、通所出来る場所があいほうぷ吹田です。しかし、毎年このような重い障害を持つこどもたちが支援学校を卒業してくると、受け入れる場所が足りないというのが現状で、第二あいほうぷが必要ではないかと私たちは繰り返し取り上げています。

通所者のみなさんが、思いっきり演奏したり、歌ったり、踊ったり、声援を送ったり。盛り上がっています。
健常者なら、歌詞を覚えて歌うのは当たり前かもしれませんが、障害者の方には簡単ではありません。だから、同じ歌を歌うという行為も、少し違った角度でみせてくれます。
私たち人間の計り知れない能力に気づきます。
大人になる過程で、いろんなことを理由に抑え込んだ自分の感情をストレートに表現することができない私ですが、そんな事をみじんも感じさせない思い切りのよい表現に、すがすがしさを覚えます。



「意味なき命」と勝手に決められ、19人の障害者が殺害された相模原の障害者入所施設殺傷事件からもうすぐ2か月がたとうとしています。今の時代、そんなことを本気で考えて行動に移す人がいることに驚き、怒りや悲しみ、疎外感、いろんな感情が押し寄せました。
障害者を家族に持つ私自身が、事件が報道されるたびに何度となく流れる、犯人の「障害者は生きている意味がない」というメッセージに傷つきました。このもやもやをどう表していいのかわからず時間がたってしまいました。

「効率性」を尺度に企業が人材を求めるのはまだ理解ができても(最近はそれも是正する働き方の改善が言われていますが)、社会が人間に効率性を求めるとしたら、人間社会としてはかなり歪んでいるといわなくてはなりません。
生まれてからしばらくの間はなんにもできないし、病気や事故でいつ障害を負うかもわからないし、やがて誰もが老いるわけです。この人たちを支える人も含めて、「税金がかかるから」と否定すれば人間社会が成り立たないのでは。
そんな考えは間違っている!と、政治家が声を大にして言わなければならないときだと思います。しかし、その発信が自民党政権からあまり聞こえてこないと感じるのは私だけでしょうか。自民党の野田聖子衆議院議員くらいしか取り上げられていないように思います。