プラハからウィーンへの移動は、レイルジェットと呼ばれる国際特急列車を利用しました。 レイルジェットは、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、スイスなどに乗り入れており、プラハ-ウィーン間を約4時間で結びます。

 

↑プラハ中央駅から8時51分発の列車に乗りました。

 

↑レイルジェットは自分の席で食事を注文して食べることが出来ます。 昼食はウィンナシュニッツェル(仔牛のカツレツ)。

 

12時49分にウィーン中央駅に到着。 トラムでホテルに移動してチェックイン。 その後、ウィーンの森への現地ツアーに参加しました。

 

このツアーは、ウィーンを拠点に活動していたベートーヴェンのゆかりの地を訪ね、ウィーンの森にあるカーレンベルクの丘という見晴らしスポットで景色を眺め、最後はブドウ畑に囲まれたホイリゲ(ワイン酒場)で夕食という贅沢なコースです。

 

↑ウィーン市街にあるのが、ベートーヴェンが「運命」を作曲したというパスカラティハウス。 ベートーヴェンが借りていた部屋は5階で、家主のパスカラティ男爵は、ベートーヴェンのために常にこの部屋を空けていたそうです。

 

↑ウィーン市街から5kmほど郊外にあるエロイカハウス。 その名の通り、ベートーヴェンが交響曲第3番を作曲した家です。

 

↑さらに2kmほど北上してハイリゲンシュタットに到着しました。

 

ここは難聴が悪化しつつあったベートーヴェンが温泉療養のために住んだ場所です。 

 

↑引越し好きだったベートーヴェン。 この付近だけでも、彼が住んだと言われるベートーヴェンハウスが5つあります。

 

↑ベートーヴェンが遺書を書いた「遺書の家」は博物館になっていました。(妻の顔が写りこんだので星でマスク)

 

↑中庭には巨大なスピーカーがあり、ベートーヴェンの曲が流れていました。

 

↑これがいわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」。 難聴の悪化に将来を悲観したベートーヴェンが、1802年、32歳のときに弟2人に遺書をしたためました。

 

しかし、難聴と向き合って作曲家として生きていこうと決意したベートーヴェンは、この遺書を発送しませんでした。 そして、その直後から交響曲「英雄」「運命」「田園」など、傑作を量産し始めるのです。

 

↑ベートーヴェン34歳の肖像画。 苦悩を超えて「傑作の森」に入る頃。

 

↑ウィーンの森を散策するベートーヴェン。

 

↑交響曲第6番「田園」の構想を練ったと伝えられる散歩道。 「Beethovengang(ベートーベンの散歩道)」という標識が立っています。

 

↑散歩するベートーヴェンの彫像

 

今回の記事はベートーヴェンで終わってしまいました。 ウィーンの森ツアーの続きはまた次回。