第3章「我が半」…「武田紙器株式会社 時代」 ①就職 ②販売業務 ③【倒産  | 獏井獏山のブログ

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①【就職】

 高校を卒業すると、私は武田紙器株式会社の社員となり、販売課に所属した。販売課には佐藤課長のほか、課長補佐の吉岡さん、1年先輩の中村、高橋の両君と同期の鎌田君が所属していた。

佐藤さんのことはよく知らないが、吉岡さんは社長の娘婿、高橋と中村と鎌田は専務が出た高校(天王寺商業)の後輩という、ほぼ同族的な集まりであり、私を含めてすべて縁故採用である。

 

入社当初の1ヵ月は現場経験ということで、工場現場に於いてパッキング・ケースや紙箱の工場労働に従事させられた。販売課員は自社の中身をよく知っておく必要からも、身を以て自社製品の製造過程を体験させるためとのことだった。

ここで1ヵ月過ごして、2か月目からは運搬用トラックの助手席に乗せられた。運転手の村山さんはベテランで近畿一円の得意先へ1人で商品を納品する。尤も近畿一円といっても殆どの得意先は大阪市内と大阪府の南部及び奈良県の郡山市、桜井市など田舎の小さな会社が主だった。

当時、大阪にはレンゴーとか千代田紙器など大手の紙業会社があり、これらによって近畿地方は殆ど抑えられていたので、武田紙器のような新参の小さな会社はそのお零れを拾って回るより外なかったようである。

 

それは兎も角、村山さんは何処の得意先へ行ってもオッスという風な挨拶で済ませるほどよく知っているし、性格も明るく社交的だった。運転技術も抜群で、丸ハンドルの三輪トラック「ジャイアント」を自分の足のように操りながら道中面白い話をしてくれた。

得意先では村山さんと私の2人でトラックの荷を下ろすのである。格納場所は工場の奥の納屋のような所もあるが、村山さんはまるで我家のように勝手に入って行って、納品を終えてから初めて得意先の人に話をするという具合だった。そこで村山さんはいちいち私を得意先の人に紹介してくれた。

 

②【販売業務】

 工場での製造過程と得意先回りを終えて、6月からいよいよ販売課員本来の業務に就いた。最初の1週間は佐藤課長にくっ付いて得意先回りである。外交のベテランのやり方を見て販売技術を身に付けるためである。流石に佐藤さんは舌を巻くほど人の心を掴むのが上手だった。私なんか何年経ってもこんな風には人を惹き付けることが出来ないだろう、と思った。

 1週間の販売技術指導が終了して次の週から大阪市南区順慶町にある営業所詰めとなった。毎日ここへ出勤し、ここから得意先へ注文取りや、会社・商店の新規開拓に出掛けるのである。…こうして、兎にも角にも私は販売課員としての一歩を踏み出したのである。

 

 営業所には専務や吉岡さんが時々顔を出すが、佐藤さんは滅多に来ない。

毎日ここに出勤し、ここから得意先なりに出掛けるという勤務スタイルをキチッと採っているのは1年先輩の高橋、中村、と同期の鎌田と私の4人だけで、事務所には三浦という女事務員が1人という体制である。従って新入社員2人の事実上の指導者は高橋と中村である。先輩と云っても1年違いだから日が経つと友達のような間柄になる。販売体制は一応2班制をとり、私は中村と組んだ。慣れるまでの間マンツーマンで指導して貰うためだった。指導と云っても「おい、行くぞ。」と中村に促されて、中村が運転するスクーターの後に乗って得意先へ出掛けるだけである。そうして紹介された得意先の幾つかが私の持ち分として与えられたのである。あとは得意先と上手に付き合ってコンスタントに注文を貰うことが重要で、もし喧嘩でもして取引御免になったらクビになるということだった。

得意先回りを終えて余った時間はパッキング・ケースや紙箱を使いそうな会社に飛び込んで、得意先の開拓に努めるのも販売員の任務である。そして1週間に1度、本社に顔を出して業務報告をすることになっていた。

 

③【倒産】

 しかし、入社して3ヶ月も経たないうちに会社は潰れた。

 社長が信用して金銭一切を任せていた経理課長が300万円の現金を横領して姿を晦ましたのである。このため不渡り手形を出し、1,000万円の赤字を出して会社は倒産した。

 

思えばその1ヵ月前、営業所によく出入りしていた「中野のオッチャン」と呼ばれていた原料会社の一匹狼社長が「あんたら、なんぼ貰ろてんねん」と聞くので「7千5百円」と答えると「え!そらあかんで。あんたらみたいな半人前も仕事出来んのに7千5百円は高すぎるわ。そんなことしてたら会社潰れるで」と云ったことがある。月給7千5百円は当時のチャチな会社の高校新卒社員の給料としては確かに高かった。しかも、云われる通り、毎日ゆったりとして仕事の厳しさも味わっていない。いずれ組織の一角が破綻する一因ともなり兼ねない状況にあったのが会計の横領という一つの形として表れたのかも知れない。

 

債権者会議が当社との取引中止を決定した。板紙など原料の最も大きな仕入れ先であるレンゴー紙器を筆頭とする債権者が納入した原料を引き揚げるために、トラックで本社工場に押し寄せてくる、という情報が社内に流れ、社員全員が本社に集合待機した。

横領によって一部の手形が不渡りになったものの、少しの日数の猶予があれば穴埋めが可能で、そこを乗り切れば会社は復興できるので、債権者に対して引き揚げを堪えて貰うよう、専務等の幹部が嘆願を申し入れ中であり、結論が出るまでの間、各社の原料引き揚げを実力阻止するのが待機社員の任務だった。生れて初めて味わう修羅場の雰囲気に私は興奮をそそられたが、結局、債権者会議は当社の申し入れを拒否したため、我々は待機を解き、工場は無血開城の形で原材料を債権者に引き渡すことになった。名実ともに倒産の瞬間である。

 

30余名の社員たちは一文の退職金を貰うことなく、寧ろ経営者一族に同情の念を抱きながら会社を去ったのである。

      

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 ここでの体験が今ある私にとってどういう意味を持つのか、よく分からない。つまり、ここでの体験がその後の我が人生に与えた影響を何も見出せないのである。ただ1つ敢えて挙げるとすれば、高橋との出会いである。

 高橋とはその後、数年間に亘って、より深い付き合いをすることになる。社員当時の付き合いはそのキッカケである。

 

 高橋はその後もしばらく武田家一族と労を共にしている。会社倒産後の整理を終えた段階で、専務の弟が社長になって新たな会社を興すことになり、高橋はその設立人のメンバーに加わったのである。

 

 一度、高橋に呼ばれて、新会社と得意先との野球の試合に、新会社のメンバーとして出た事がある。私がピッチャーで高橋が捕手だった。軟式の7回戦、1点リードで迎えた7回裏、相手の攻撃で二死満塁、カウント2-3という場面を迎えた。私の投げた球は高めのボール球だった。しまったと思った途端、打者のバットがその下で空を切っていた。試合終了。最後のこの場面は今でもはっきり覚えている。試合後、両チーム合同の宴会があった。会場は旧武田紙器()の工場二階の広場だった。私は初めて酒を沢山飲んで、生れて初めて酒の酔い心地を味わった。酒は赤玉ポートワインだった。この酒宴が会社を見た最後だった。そして高橋とも暫くの間、別れることとなった。