第6章 創作・随筆(第2節…手記「大丸百貨店・実習記」2) | 獏井獏山のブログ

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 私の居る売場にはクレープシャツ上下とステテコが置いてあるのだが、我々にとって何が迷惑かといって、ステテコを散々出さされる程迷惑千万極まることはない。これを見せて呉れ、あれを見せて呉れと云ってガラスボックスから、ブロードの物やら人絹やらを10枚から、果ては20枚も出させておいて「今、ここに主人が来てませんので、一度帰って好みを聞いてまいります。どうもすみません、失礼しました。」と云ってスゥ~っと行ってしまうか、良くて1枚買うのが関の山である。そんな婦人…いや、エエシの御婦人の後姿の憎らしさと云ったらない。出すのはそんなにも世話はないが、それを元に戻す時が厄介なのである。人絹などはツルツル滑って云うことを聞かない。

 

 色々の人と当たっているうちに段々と仕事の内容が分かってきて、販売や発送伝票の書き方も覚えた。何よりも嫌なのは暇な事である。終り頃は気兼ねをしなくなったが、暇な時は退屈で嫌になる。そんな時でも、慣れてないから易々と話も出来ない。店員さんも同じように暇だからまだましというものだが…。

 

 私と同じ枠内で仕事をしている実習生は私を含めて5人居て、私の他に林と云う男子。他は女子が3人である。

 実際いうと私は初めから言葉を丁寧に使い過ぎていた。ところが林の方は去年も来ていたので、百貨店の空気がよく分かっている所為か、言葉も店員並に易々と使って、易々と店員と話をした。私は実に神経過敏な男である。何故かしら自分が取り残されたような気がしてならない。林と私が2人で話をしている時など、店員さんの方で用事を頼む時(用事と云えば、発送する品を地下の発送部へ持って行くとか、伝票に課長の印を貰いに行くとか、包装紙等の売場材料を取りに行くことであるが)何時も「林っさぁーん」と呼ぶ。そして他の誰でもそうなのである。そこで私はだんだん言葉を家で使っている普通の言葉に仕向けて行った。それで漸く喋れるようになったのである。

 

 本当にヒマな時が多かったから、私は色々のことを聞いた。私が仕事以外のことで尋ねたのは沢山あるが、店員さんが胸に付けているバッジについても尋ねてみた。店内に働く者のバッジの種類は5種類あった。1つは黒地に金文字で大丸の印のもの。次に白地に黒文字。そして赤地に白の大丸の印。これは皆、形は同じで色が違うだけのもの。それから青地に白で大丸とし、その上に千台の数字がこれも白で書いてあるもの。それに最後は黒地に白で大丸とし、実習という字を彫り込んだ、いわゆる我々のバッジである。私は初めの4つのバッジについて尋ねた。「私が付けているような」と、亀田さんが自分の胸を指して「こんなのが、大丸の社員よ。」彼女の付けているのは白地に黒で大丸としてあるものだった。「そんなら、あの青い所に大丸て書いて、番号のあるのは大丸の社員さんと違うんですか。何時も居るんと違うんですか。」「いえ、ずぅ~っとここに勤めているんですけどね、男の人達は大丸が仕入れている商品の卸問屋の人なのよ。年中ここに勤めていることでは皆と同じだけど、私達は大丸の入社試験に合格した大丸百貨店の社員ね。あの人達は卸問屋から派遣されている人達ってことね。」比較的言葉の丁寧な亀田さんがこう教えてくれた。「それからね…」亀田さんは続ける。「課長さんが付けていたでしょう。黒地に金文字ね。あれは25年以上勤務の社員が付けるので、私達の第1課では課長さんが1人だけ。もう1つ、赤地に白で大丸って付けているのは新入社員ね。」そう云っている亀田さんは今年の春、高校を卒業して入社したところだと云っていた。それでいて並の社員のバッジを付けているところを見ると、それ以後にも入社試験があったと見える。

 

 

 実習が始まって10日も経って、私は漸く自分の為すべき仕事の範囲を知り、その範囲内での仕事は1人でやれるようになった。客を捉まえるのも面白くなってきた。サンプルを眺めている客を見ては何とかモノにしてやろうと狙うのが楽しみの1つとなった。売り上げが多くなればなるほど客の種類も多くなる。初めの間、私はステテコの方に回ったが、10日以後は進物用のクレープシャツ上下のサンプルの所に立つことにした。

(百貨店の売場はワクになっていて、周りに品物があり、その中の方で入金したり、包装したりするのであって、そのワクの中に居る人々〔私の所では10人〕がそのワクを守っている。そのワク内ではどこに立ってもいい。客があればその方へ飛んで行くようになっている。そのワクは1つの課で4つか5つに分かれている。私はそのうちのクレープ売場という訳である。)

 中元なので、日が経つにつれて、その方が売れ行きがだんだん良くなってきたからである。進物用(もちろん箱入り)となると、1箱買って貰うだけでステテコ1枚より何倍もの買い物をして頂いたような気がする(ステテコの方が値が高い場合でも)。ところが不思議なもので、1箱でも満足している物ほど沢山纏めて買う客が多い。多数買い上げは全て中元で大抵の場合、差し上げる相手の家へ発送して呉れ,と云われる。10箱も20箱も売り上げた時なんぞは発送伝票を書くのも嬉しくて堪らない。本当のところ、客また客でてんてこ舞をする時ほど気持ちの良いものはない。時の経つのもすっかり忘れてしまうのである。ある時などは伝票を書いている途中に「獏井さん、5時半だからもう帰ってね。」と、ワク内の長の有田さんに云われて、もうそんな時間かと以外だった事もある。

 

 私は以前、百貨店の店員を見て口さえ上手く使えれば、あれほど楽な仕事はないと思っていた。いつも彼らはヒマな様子だったからである。ところが実際やってみると正反対である。最初、売場に立った時のお客様の恐怖などはどうしても考えられない。店員に喜びを与えてくれるのは客以外にない事を知った。

が、それに反して退屈する時ほど嫌なことはない。何もすることなく立っているのも退屈である。立っているのも何だから何かしようと思うが、何かするそのものも無いから困る。そこで、紙切れに絵を描いたり、墨で字の稽古をしたりする。時には雑談もするが、それは規則として絶対禁止ということになっている。いくらヒマな時でも商品を見ながらそこら辺りを歩いている客が絶えることはない。客に雑談しているところを見られる事が一番いけない、そんな行為はサービスの点に於いてゼロに等しいと、いう観点から絶対禁止になっている。それで雑談するにしても小さい声で、しかも直ぐ止めなければならない。

 

そんなヒマな日でも大体1人20点ぐらいの売り上げを見た。毎日の事であるが、朝方は余り売れず、最高売れ行き時は3時以後である。曜日にすれば来客が一番多いのは日曜で、次に土曜と火曜だという、レジーさんの話である。「一番来ないのは金曜日やな。この日はね、キンヨウ云わんと、コンヨウ云うねん。」と云っていた。が、その金曜日(コンヨウビ)も7月中のことであって、8月には通じなくなった。何故なれば、8月に入ると店内の客足が増え、午前中はともかく、午後ともなればテンテコ舞いをする程になったからである。

「ちょっと。」と呼ばれて発送を引き受ける。そして発送伝票を書いていると、人を求めて私達のワク内を彷徨っていた客の目と、自分の目がカチあったが最後、「ちょっと。」と声が掛かる。「ちょっと、すいません。」と手招きである。こうなると丸っきり反対だ。「すいません」なんてことを客の方から云われてみれば、私も面食らって「はいっ」と答えて、伝票は後回しにして客の相手をせざるを得ない。こんな時に限って客が客を呼ぶが如く、その客が済めばまた横で呼ぶ。そうなると又、次に呼ぶ人があるだろうと思っていると矢張り、光らせてワク内を眺めていた目が私をとらえて頭を縦に振る。そんなことが続くのだからテンテコ舞いである。こんな時は嬉しくて堪らない。客は後になおも続く。それでもしまいには途切れる。途切れても先程の伝票が残っているから退屈はしない。ようやく書き終えた頃はもう帰りの時間である。

8月の1日から14日までの間に1日しか休みはなかったが、その13日のうち、普通の売り上げを示した4、5日を除いては、そんな忙しい日ばかりだった。

 

 そうなると最早や私は一個の商人だった。私のこの時の気持を言い表わす為には「売場に立つのは何ともない」とか「怖いものなしである」とかいう言葉では何ら用をなさない。事実、その時の心は何ものをも超越した「楽しい。嬉しい。何とも言えない希望が湧く」という心である。

 私は初めのうちは何か憂鬱で、その上にヒマだったので、店員の目と合ってはビクビクしていた。ところが一度楽しい事があると、心が解れて次の楽しみを産むのである。そして希望が湧いてくる。私は大丸に行くのが楽しくて堪らなかった。

 

 8月1日から10日までのうち、休みが自由だったので7日をその日に充てた。その休みの日、私はこの時以外には味わい得ない気持ちを味わったのである。それは7日の日がいかに楽しかったかということである。

 その日、年1回の恒例の大掃除日だったが、私は早起きして畳の上に寝転んでいた。「休みだ」という心が何とも云えないぐらい楽しいのである。その楽しさは常と大変違う。何よりも休みを楽しく思った。明日になれば又、売上げという楽しいやつが待っている。それだから明日への不安などは爪の垢ほども無い。私はそれが楽しい今日のこの心が出来た第一の原因だと思った。これが勤め人の休みの楽しさだろうか。何時ぞや耳にした店員さんの話を思い出す。

「明日は休みやな、うれしい!」「ほんまやな。何をする云うて別にないけど、休みいうたら、うれしいなぁ。」「ほんまにな。今度、盆には15、16と2日も休みあるんやて。」「えっ!ほんま。うれしいのっ!」と云っていた。

 あの喜び方に、休みをあんなにまで喜べない私は目を瞠った。本当に嬉しそうだった。…私が7日に味わったのもこんな嬉しさに違いない。

 

 身体がえらいと思ったことはない。あったとすればそれは初めのうちだった。ただ、足が棒になる。1日立ちずくめだから足の痛いの何の…。

 布団の上に寝転がった時それがよく感じられるのである。

 この30日の間に私はもう百貨店員になり切っていた。

 今まで既述した他にも、色々楽しいことがあった。例えば、東富士や水泳の紺野がやって来たり、名のない者では人相のおっかないのやら、背の高いのや低いの、それにアメリカ人…ああ、アメリカ人で思い出したが、私は1度アメリカ人に声を掛けられた。ところが、相手は日本に来たてと見えて日本語を知らない。こちらだって英語をシャベれる由もない。店員にもシャベれる人が居ないから参ってしまった。

 

 それらは皆、売場にて開店時間内に起こった事である。しかし、これが私の百貨店内体験の全てではない。開店は10時だが、社員は9時45分までに来なくては遅刻になる。私は雨降りを含む4、5日を除いては何時も9時に従業員入り口をくぐっていた。9時と云えば世間は日も高く、朝も遅い方だが、百貨店の9時は早朝の感じがする。来客入口の扉が閉ざされて外からの光は無く、電気の光だから晩と昼の区別がない。また9時と云えば本当に早い方で、私の居るワクでは亀田さんが時には来ているのを除いて私がトップである。9時から9時半頃まで開店の用意(と云っても、布カバーを取り除くだけ)と掃除をするのである。

 9時半から「朝会」というのがある。1課の者は1課で、売場と売場との間の少し広い場所に集まり、そこで課長、係長の伝達事項及び注意事項がある。毎日ある訳ではなく偶には無い日もあり、時には2日ないし3日続いて無いこともある。

 その他、店員にとって一番楽しい昼の休憩時間が約1時間ある。これは売場の都合上、各ワク内で、誰は何時から、何時からは誰という風に決まっている。何故かというと、従業員は売場を守らなければならないから交代制をとるのである。従業員食堂で昼食を済ませると、屋上の従業員広場の椅子に腰を掛けて一息入れるのである。この休憩時間の秩序は自然に保たれていて、約1時間すれば誰でも売場に戻っていた。

 その他、3時にも休憩時間があるのだが、私のワク内の実習生(5人)は2日しかとらなかった。それは午後3時頃から客足が増すので、つい取らずに済ますのである。

 

 12日…13日…あっという間に日は暮れ、そして数日は過ぎた。8月14日…実習も最後の日を迎えた。

その日、私は朝から売場に立たなかった。その朝、私は係長に事務所に呼ばれて、紛れた伝票探しをした。その仕事は午後も続いた。これには私も参った。数千枚の伝票の中から1枚の伝票を探すのだから骨が折れるというより辛気臭い。3時頃、私はやっとのことで救われた思いで売場に戻った。その時、松尾さんが早引きで帰るところだった。「ああ、松尾さん、伯井さん来たよ。と1人が云った。松尾さんは私の方へ来て「伯井さん、長い間ありがとうございました。」と云って会釈する。私も会釈したが返すべき言葉が見付からない。それで簡単に礼を述べただけである。

 有田さん、権藤さん、舟木さん、桂さん…次々とお世話になった方々に礼を述べて別れた。亀田さんはその日休んで故郷へ帰ったそうである。

 

 私と林は同じ地下鉄なので一緒に階段を降りた。コンクリートの傾斜を下り切った所が大丸百貨店の側面になっていた。そこで私と林はこんな会話を交わした。

「もう、ここともお別れか。」「ホンマやね。1回エスカレーター乗ろか。」「うん。バッジも返したし、お客さんになって、ナ。もう…」「そうやね。乗ってもう1度、1階へ上がって行こう。」と。それで私達はエスカレーターに乗ってから帰った。

 

 家に帰るまで疲れを感じなかった。電車に乗ったが、私の頭の中は30日間の回想で一杯だった。初めて売場に立った時の自分と今の自分…それは、単に百貨店生活に於いてであるが、変化していた。百貨店を見た以前の自分の目には、それはむげに華やかな所であり、反面白々しい、冷然とした所に見えた。が、30日の百貨店生活を終えた今の自分にとって、それは暖かくボンヤリと頭に浮かぶ幻であった。ただボンヤリと、社員の親切と売り上げの楽しさが頭を占領した。

…河内松原駅に着くまで、電車を乗り過ごしたりして、思い出は続いて止まなかった。何と快いのだろう。何とも言い表せない気持ちに浸った。明日に入社試験が迫っていることも忘れていたぐらいである。

 

(後書き)

 実習期間の30日間を思い返して完全に書き上げるにはこの他にもまだまだ書くべき事がある。…往復の電車の中で、あるいは駅の広場で見掛けた事柄の方が、百貨店内よりも教えられた事が多かったかも知れないが、それは別に記すことにして、ここでは題意に従って、大丸百貨店での体験を記すに留めることとする。

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 翌日になると私の心は冷めていた。淡い心は何処へやら消え失せて、平静の心に少し影を留めているのがせめてもの慰みである。何故、あの際にはあんな心情が湧くのだろう、と不思議に思う。常に心を冷静にし、モノを客観的に見ることが出来たなら…云い替えれば、人間が完成していれば、あんな一時的な喜びは決してなかったに違いない。しかし、私はこんな自分を幸福だと思った。

 あの喜びを味わったことは、私には何ものにも代え難い、何よりも得難い、獲物だったからである。もし冷静な自分であったとしたら、あの喜びはない。人の幸福とはあんな喜びの集まりではないだろうか。私は愚物なるが故にあの心持を味わった。あの心持を味わったが故に、私はその時、最大の幸福者だったのである。だから、何事をも批判無しに率直に喜べる者こそ幸福者である。これが故に愚者に自殺はない。脳のある者は余りに深く考え過ぎて自殺する。そんな人間こそ最大の愚物と云うことが出来るのではないだろうか。私の最期に思い付いた考えはこんな事である。(終り)