第2章「人生」㉛~㉝ | 獏井獏山のブログ

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人生㉛ 「三途の河」について   
 

・人間が死んで魂が肉体を離れた時、その魂は過去世の全ての記憶を取り戻し、あらゆる地球上の出来事を一瞬にして見極めることが出来る。この魂本来の能力を、人間として生きながらにして得ることの出来る道が1つだけある。それは、心肺停止した瞬間に肉体から抜け出して三途の河を渡りかけた魂が、元の肉体に戻って「蘇生」した時である。心肺が停止し、死亡したと医学的に認められた人間が奇跡的に蘇生した場合、その魂は前世の全ての記憶を持ちつつ元の肉体に還ることが出来る。

 

・Aは交通事故で担ぎ込まれた病院の中で仮死状態になった。一旦肉体を抜け出した魂は三途の河の船の中であらゆる前世を思い出し地球上の全ての光景や歴史を記憶に納め、その状態で奇跡的に三途の河を引き返して肉体に戻った。今までと同じように目に見える物は何も変わらず超能力は無くなったが三途の河の上で得た超能力的知識だけは残っていた。元に戻ったAは人間が如何に矛盾した馬鹿馬鹿しい事をしているかということに目を瞠った。

 

・普通の人間が前世を覚えていないのは生まれ変る度に自己の本質である魂が前世と異なる肉体に入るからである。肉体に潜入した魂は即座に肉体の中心にある膏肓に籠ってしまい頭脳との音信を断ち切ってしまうのだ。…バカみたいな話だが肉体と魂の関係というのはそんなものではないだろうか。

 

 

人生㉜ 「思想(哲学)の根源は固有の人生経験にある」    
 

・私が現在持っている生き方や思想は過去の人生によって積み上げられた幾多の経験によって出来上がったものである。従って全く別の人生を経験してきた人と違いがあるのは当然である。

 

・他者の思想、特に自分とは性格の違う人の思想を理解し、なお且つそれを受け入れて自分のものにするには、自分はもう1度生き直して、その人が歩んできたと同じ人生を経験し直す必要がある。だが、人は同時に2人分の人生を経験することは不可能であり、生き直すのも又、不可能であるから理解するのは至難の業と云わざるを得ない。

 

・「思想」と呼ばれるのは、それが「人それぞれが他者の考えとは関係なく独自性がある」所以である。一方、当然のように共通することは「常識」と呼ばれる。

・つぶさに見てみると、「常識」は非常に単純なことである事に気づく。例えば、「人に世話になれば礼を言う」とか「迷惑掛ければ謝る」等である。

・「思想」とは、もっと人間の心の奥底に存立基盤を持つもので、各人個別の人生観として表される考えである。将に独特の環境と人生経験によって培われたものなのである。

 

・人の心の志向もまた同様、人生経験や周囲の環境に左右される。故に、各人が全く同じ志向を持つことはあり得ないといっても過言ではない。ライフワーク・趣味は志向そのものである。ライフワークであれ、遊びであれ、自分の志向に無い事に興味は湧かない。人は興味のない事に心を向けはしない。

 

 

人生㉝ 「自分の中の魂の声」  
 

・自分の行動・思考が軌を逸しそうになった時、もう1人の自分が窘めて抑えてくれることがある。それは身体の中心の膏肓に閉じ籠っている魂が発する声である。

魂の声は俗人の肉体機能で直接には聞き取れないが、魂が発する波動に依って伝えられ脳がフッと思い付くのだ。

出来ることなら魂の声を聞くために、時々は座して瞑目して魂に会いに行く努力をしようと思う。これによって万一、魂と対話ができたとしたら勿怪の幸いである。

 

「もう1つの考え方」

2人の己が居る…だからこそ空疎な思いが癒される。

 

・表面的な己は利己に包まれ、対人を意識して生きている。殆どの人間はこの類だろう。表向きは愛想よくしてもその奥にチラチラと利己が見える。それが普通である。

 

・自分の思いが少し揺れる時に、声なき声で制するのがもう1人の己である。それは身体の奥の奥の芯に居て身体の思いと動きを常時見守っている魂そのもののようだ。…そうに違いない。若しそうなら、「生身の私の脳」が魂の存在と居場所を見付けたことになる。