第2章「人生」⑮~㉑ | 獏井獏山のブログ

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生⑮ 「自分のカプセル」 2015-09-21
 

・私は時々、自室で座禅を組む。「無」になろうとする。しかし、「無」になるなんてそう簡単にはいかない。

 

・どうすれば「無」になれるのか、を考えた。

 どうも単に「座るだけ」ではダメだと分かった。では残るのは「思考」であるが、思考を断つために無を求めているのに思考するというのは何か矛盾しているようにも思う。…しかし座ってどう向き合うかは考えによって導き出す外ない。そこでフッと脳裏に浮かんだのが「自分のカプセル」という考え方である。

 

・私には「ライフワーク」と決めていることがあり、これだけは生きているうちにやり終えたいと常に考えている。

「早く始めないといけない。取り敢えず、何はさて措きスタートに着手すべきだ。」と何度も思い、己自身を叱咤してきた。それでも中々始められなかった。頭では何時も気にしながら最もなすべき事に手を付けることがどうして出来ないのか。

理由は分かっている。ついつい他用に手を付けてしまうからである。

「これをやるからには徹底的に本格的にやりたい。」と考える。すると本格的にやるためには目障りな身辺の雑事(人との約束や身辺整理や趣味など)を先にチョンチョンと軽く片付けてしまってから本番はじっくり手を付けたい、と考える。(これが物事に中々着手しない人間が嵌り易い淵である。)

・ところが身辺の雑事というものは毎日、次々と生じる。その中には、気に留めてしまうと放置できない事が案外多いのだ。手間の掛るのも含まれている。これでは何時まで経ってもライフワークに着手できない。

そこで、何はともあれ頭の中を空っぽにしようと思って座禅を組んだところ、悩む私の脳裏にフッと閃いたアイデアが「自分のカプセル」だった。

 

(目を閉じて思い返せば自分が育つ課程で、ある時点までは常に最優先すべき事に自然と手が動いたように思う。ところが何時の間にか雑事が増え、その事に縛られるようになってしまっていたのである。)

 

人生⑯ 「結論とは過程の集積体である」    2015-09-24
 

・これまで、そこに至る過程を通り越して結論だけを示すことを追求してきたが、それが無意味に近いことが分かってきた。結論はそこに至る過程を意味付ける役割を持つものであって、それ自体、価値ある存在たり得ないのに。

・これまでは結論に至る過程などは無意味だと思っていた。しかし、よく思い返してみると、私が歩んできたこれまでの人生で、楽しみ、苦しみ、泣き、笑い、酔って過ごしてきたことは、いずれも過程の中にあったことに思い当たる。

・結論は、その過程を意味付けることにおいて、初めてそれ自体、意味を持ってくる。

・人生の結論は死だ。死そのものには意味がない。が、人がいかに生きてきたかという過程と結び付いた時、死は大きな意味を持ってくる。この場合、人生という過程が、死という結論を位置付け、意味付ける立場をとることになる。

 確かに、死に至るまでの、人生の、日常の中での、1つ1つの出来事に

も結論めいた区切りはある。しかし、それは死という大きな結論に対し

て1つの過程に外ならない。

・人はある1つの結論を目標として掲げ、それを実現させるために努力する。そして、その目標が達成すると新たな目標を掲げて努力する。これを繰り返した末に死を迎える。死という一瞬の結論を得るまでの全ての時間を「過程」として生きていくのである。

・ここに至って、「過程」それ自体が「結論」の中身であることが証明される。即ち「結論」とは、もっと厳密に言えば「結論の中身」は、ある一点によって説明されるものではなく、「過程という無数の点」の集積体なのである。

 

 

人生⑰ 「過行く年月の速さ(長さ)」      2015-09-27
 

・「光陰矢の如し」という言葉がある。広辞苑によれば「月日の早く過ぎ行くたとえ」とある。

・この言葉を感じ始めるのは30才の半ば以降ではないかと思うが、感じ方は年齢とともに変化する。

・50歳を超すと「1年」の速さを感じるようになる。そして年月の速さは年令を重ねるにつれて加速される。

 

・私は自分の経験から、人が感じる年月の速さ(長さ)は次のような式で表されると考えている。

(ここでは「1年の長さ」を例にとって表すこととする)

 

②  1才児が感じる1年の長さを 1分の1 = 100 %」とすると

 

60才の人が感じる長さは 60分の1= 16.7 %」となる。

 


(以下、年令を分母にしてパーセンテージをはじき出す)

 

人生⑱ 「人の行為」         2015-10-12
 

・人の行為はいわば「水面に映る影の如し」である。

偉ぶれば偉ぶるほど、背伸びすれば背伸びするほど、その影は深く沈む。

それは、反動が来た時の姿を映したものである。

 

 

 

 

人生⑲ 「人の業(ごう)」       2015-10-12
 

・人は必ず死ぬ。それを自覚しつつも、人は死に際まで自分に課された「仕事(作業)」のこと考え、完遂する見込みがなくても、せっせとやり続ける。それは人の魂が永劫不滅であり、魂にとって今生は瞬く間の課程に過ぎないこと、作業が未完に終わってもその内容は来世に引き継がれること、を本能(膏肓に籠る自己の魂)が知っているからである。人はそれを自覚しないが本能はちゃんと心得ているのだ。ただ、人生を全うしようと懸命に生きている人間(俗人)にとって、それは「生まれながらにして背負わされた業(ごう)」である。

 

 

人生⑳ 「勝負事に向かう心」      2015-11-08  
 

・声の大きい奴、人を押し退けたり人の意見を無視して自説を主張する奴が勝つような、そんな世の中を忌み嫌う人は少なくないだろう。そのような人は勝ち負けのはっきりした事に好んで心を向ける。勝負の世界では口であれこれ熱弁を振るわなくても正しい答えを出した者が勝つ。黙っていても、正しい結論が静かに訪れるのだ。

 

 

人生㉑ 「人生の敗残者」        2015-11-08
 

・「私は人生の敗残者」である。いや、この表現は必ずしも的を得ていない。何故なら、この表現は、「人生には①あらゆる事業に成功を納め何の苦悩も無く人生を全うした者は成功者、②そうでない者は敗残者」という2種類の区分があるという仮定が前提になっている。

 

・しかし、あらゆる人間は、上記の区分で言えば後者に当たる「人生の敗残者となる運命」を背負ってこの世に生きているのである。

 

・人は魂の修行のために「天」(正確には、あらゆる魂の本拠である「神聖天国」を取り仕切る神)から地上に遣わされたものである。修行は苦行である。その苦行を凌駕するための前向な努力に対する飴玉として「天」はいくつかの楽しみを与えたに過ぎない。

 

・そのような原理を「天の啓示」によって悟った私としても、人間である以上、楽しみを求める欲望は持ち合わせている。そして過去を振り返る時、矢張り苦悩の多い人生であったことを沁々と噛みしめる。

その中で、あの時、もう少し運命が変わっていたら、あの時の我が想いが人に通じていたら、今少しは悔いの無い人生を送れたかもしれない…と思うことがある。

 

・残り少ない人生の岐路に立って、いま私は少なくとも私の思考の中だけでも、心残りのある幾つかの経験を膨らませて、空想の中で幸せな半生を生きてみようと思う。

私には心に展ける思いを紙面に綴ることぐらいしか能は無いのだから。

 

・これまでに私が記してきた事の中には実際の体験と、それを誇張した空想が入り混じった情景が随所に出てきているし今後もあり得る。

 そこでは、しっとりした心情があるかと思えば、波乱に満ちたハラハラするような事件が起こるかも知れない。しかし、それこそが平和で細やかで人間臭い実際にあり得べき人生の形であると考えている。