日記 ㉘「母の骨折」(S51.8.21) | 獏井獏山のブログ

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51.8.21)

 718日の夜、母が骨折した事は近年にない我家の大事件だった。

 離れ座敷の廊下を掃除している時に滑って尻餅をついて大腿骨を骨折したのだ、という。

 私が堺の椋本病院に駆け付けた時の母は、手足と唇をブルブル振るわせて譫言(うわごと)を云っている状態だった。

 既に付き添っていた家族は、院長の指示で、変り番で寝台の横に座って母の頭を冷やし続けた。…そんな事が丸2日間、徹夜で続けられたが、母が目を開くことはなかった。

 

 そんな最中、義兄の森中定夫さんが「こんな事をズルズルしてたらアカンのと違うか、ちょっとおかしいぞ。もっとちゃんとした病院に入れんとアカンで。」と云ったのは、19日の夜更けだった。…家族の衆議一決で国立南大阪病院に移ったのは20日の午後だった。…病院の寝台車で搬送の間に揺られた所為か、母は数回に亘って茶色い液を嘔吐した。

 

 病院に付いて病室までの廊下を移行する間も、ストレッチャーに付き添うようにして氷を包んだタオルで母の頭を冷やしていると、引率する看護婦が「何しているのですか?」と疑いの目を向けた。「前の医院で冷やし続けるように言われていたので…2日前から昼夜を通して冷やしている」旨を答えると、「それ、ダメよ。そんな事したら脳がダメになるやないの。」と云って母の額に乗っていた氷タオルを取り上げた。病室に入って診察に来た医師の診断も同じ答だった。…その医師が私と兄を隣室に呼んで「この儘では助からない。大腿骨は手術する必要がある。それには全身麻酔が必要になるが、冷やし過ぎて相当悪化している頭(脳)が麻酔に耐えられるか分からない。麻酔に耐えて術後に目覚めるかどうか保障は出来ないが、この儘だと寝たきりで終ってしまう。…どうしますか?決めるのは家族です。」と告げた。兄と私は目を合わせて頷き合ってから「お願いします。」と返事した。そして看護師が持ってきた同意書に兄がサインした。

 出来る範囲の体力回復施術がなされて、翌々日の7月22日、母は手術を受けた。

 

 手術後の母は丸24時間、眠りっ放しだった。

 30分毎に血圧を測りに来る看護婦たちは無言のまま首を傾げては、側で心配そうに覗き込む付き添いの我々からの質問を避けるかの如く逃げるように出て行くのであった。

 医師や看護婦から「目を覚まさせるには呼びかけが大事なので、耳元で大きな声で名前を呼び続けて下さい。」と云われていた家族は交代で母の耳元に口を近付けて大声で母を呼び続けた。

 

 23日午後の定刻検診で血圧を測りに来た看護婦長が「血圧が極端に低くなっている。」とベッド傍に居る私を見て下向き加減に小首を傾げて立ち去った。血圧ゼロは死を意味する事を聞いたことのある私は心を沈めたが諦めてはいなかった。母に付き添っている間、私は常に手首を握りっ放しで脈を計っていたが、しっかりした脈が打っていたので、このまま死ぬことはないと自分に言い聞かせた。しかし、脳死の可能性はゼロではないので、どうか目を覚ましてくれるようにと祈りつつ「オカちゃん!オカちゃん!」と叫び続けた。(現注:「オカちゃん」は母を呼ぶ時の河内弁。)

 

 「う…う、」という声を、それも注意して母の顔を見続けない限り見逃すに違いないほど細く、且つ1秒の何分の1かの短さで聞いたのは、22日午後4時に手術が終ってから24時間以上も経つ23日午後5時頃だった。

 この「動き」は30分~1時間おきに行われ、その他の時間は眠りっ放しだった。が、私は安心していた。「目さえ覚ませば…」と思った。「気さえ付けば絶対に立ち直るだけの根性」が母にはあるのだ。それでも私は母の脳が麻酔薬のため目覚めないうちに身体がどうかなる事を恐れた。死に対する抵抗を持たない状態の母は脆いであろう、と思った。しかし、正気を取り戻しさえすれば、通常人なら死に襲われる状態であっても、精神力で生き抜くことをこの母はするであろうと固く信じていた。…

 …そして、母は目覚めた。もう死ぬ心配は無い!私はホッとした。地獄から救い出されたような気持だった。

 

 既に高齢の母は目覚めてから、目を開き続け、口を利けるようになるまで1週間以上を要した。が、汁物を口にするようになってからの回復は実に早かった。

 8月7日には足の運動のためプールに入れるまでになった。14日にはベッドに近い窓に捉まって立った。19日には歩行器を使って歩く練習に入った。…もう安心だ。

 

 家族(母の子と、その配偶者)はこの間、交代で母の世話をした。そのうち私を含む男3人(兄弟)も女達と同じように下の世話もしたが、私自身についていうと、母が如何に苦痛なく過ごせるかだけを考えていたので、全く抵抗なく手が動いた。

 

(現注:この日の日記はここで終っている。約2ヶ月の入院生活を終えて母は退院したように覚えている。家に帰ってから約3ヶ月の在宅療養で歩くようになっていた。…それから10数年後に母は再び廊下で転倒して寝込んだ。…それまで、親不孝の限りを尽くした私はこの時以来、天寿を全うするまでの数年間、子供(母の孫)の顔を見せに毎週、枚方宿舎から河内の実家に通ったのを思い出す。)