心旅(補遺)  ⑮「人生…(4)」 | 獏井獏山のブログ

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 「悟り」         2015-10-02
人は皆、身体の中心に「神聖」を持っている。

 合掌し、瞑想を深めるとその「神聖」を発見することが出来る。

初めから、それを見つけようと狙って手を合わせても中々見当たらない。結果そのうち(こん)が尽きる。故に、最初は神仏(と見做した偶像)に向って拝むのだ。拝んで拝んで拝み続けて深化すると、そのうちに神聖の形(影)が瞼に浮かんでくる。そして集中して見極めると、それこそ自分自身が持つ「神聖」であることを発見する。心眼が開かれる。

それが「悟り」である。

(必ずしも拝まなくても、座禅をして瞑想に耽って深化すれば自分なりの悟りは開ける。…次々と雑念が浮かぶが無視して続けているうちに「閃き」があらわれる。それが自分なりの悟りである。)

 

(現注:一時「悟った」と思った事はあるが「魂」と邂逅することこそが悟りであり、今の我が身は程遠い。)

 

「随所に主となる」       2015-10-02 

全ての「纏わるもの」を排除して、魂を裸にせよ。それが『無』だ。

そして勇猛果敢に現世でなすべきこと「瞑想を行ってマントラを行った後の落ち着いた精神を得た後において」自らの心に従った自由な行動を「臆せず果敢に」実行せよ。怯まず奮起しながら前進せよ。(行く手に魔多し)

人に接するに寛容を持ってせよ。全てを是とし受け入れよ。陽気を保ちながら受難に対応し楽天的に受け止めよ。そして常に感謝を感じよ。

 それが出来た時、自己の行動に自信を持て。他を気にするな。

その場その場で主人公になれば、己の在り場所は皆、真実の場となる。

心の欲する所に従って則を超えず。即ち、やりたいと思うことをやり、やりたくない事はやらない。(義理に迫られて物事をする必要はない。上記のように、良心に基づく行動をしておれば何ら憚ることは無い。)

 

時に悟り、時に迷う。これ即ち悟りであり、其処が出発点であり、終着点である。

ほんの一瞬でも悟り得れば、それが悟りを開いたことであり、至福への第一段階の到達が永遠の至福でもある。聖人でも、ある一瞬の悟りのほかは殆どの時間、迷いの中にある。  (以上…自戒)

 

(「無」もまた簡単ではない。但し、思うに「魂」と邂逅するためには「無」は必須条件だろう。)