心旅(補遺)  ⑭「人生…(3-2)」 | 獏井獏山のブログ

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(3)の続き(掲載許容字数を越えたらしいので…追加。)

 

「自分のカプセル」       H27.9.21記 

私は時々、自室で座禅を組む。「無」になろうとする。しかし、「無」になるなんてそう簡単にはいかない。

どうすれば「無」になれるのか、を考えた。

 どうも単に「座るだけ」ではダメだと分かった。では残るのは「思考」であるが、思考を断つために無を求めているのに思考するというのは何か矛盾しているようにも思う。…しかし座ってどう向き合うかは考えによって導き出す外ない。そこでフッと脳裏に浮かんだのが「自分のカプセル」という考え方である。

 

私には「ライフワーク」と決めていることがあり、これだけは生きているうちにやり終えたいと常に考えている。

「早く始めないといけない。取り敢えず、何はさて措きスタートに着手すべきだ。」と何度も思い、己自身を叱咤してきた。それでも中々始められなかった。頭では何時も気にしながら最もなすべき事に手を付けることがどうして出来ないのか。

 

理由は分かっている。ついつい他用に手を付けてしまうからである。

「これをやるからには徹底的に本格的にやりたい。」と考える。すると本格的にやるためには目障りな身辺の雑事(人との約束や身辺整理や趣味など)を先にチョンチョンと軽く片付けてしまってから本番はじっくり手を付けたい、と考える。(これが物事に中々着手しない人間が嵌り易い淵である。)

ところが身辺の雑事というものは毎日、次々と生じる。その中には、気に留めてしまうと放置できない事が案外多いのだ。手間の掛るのも含まれている。これでは何時まで経ってもライフワークに着手できない。

 

そこで、何はともあれ頭の中を空っぽにしようと思って座禅を組んだところ、悩む私の脳裏にフッと閃いたアイデアが「自分のカプセル」だった。

目を閉じて思い返せば自分が育つ課程で、ある時点までは常に最優先すべき事に自然と手が動いたように思う。ところが何時の間にか雑事が増え、その事に縛られるようになった。

 

このような環境を脱却する唯一の方法は、以前のように「最優先の事に自然と手を付けることの出来る形」即ち「自分のカプセル」を構築し、その中に入ることだと気付いた。

 

「自分のカプセル」をイメージしてその中から周囲を見回すと、今までの自分が如何に詰まらない事に没入していたかが鮮やかに映し出される。

 人情の絡まり、自分勝手な拘り、など日常生活上の柵(しがらみ)が粘々した土壌を形成し、そこに立つ自分の足が自由に動かない様が見えてくる。

そこで思った。「そうか、これらの雑事をライフワークの下に従えればいいのだ。」と。先に片付けなければならないと思った事を後回しにすることによってライフワークに手を付け集中することが出来るようになる。そして時々は気晴らしに多種の趣味の中の1つを楽しんだり、一度会おうと約束をした人と会食をしたり、目に余る片付け物を処理すること…等々がライフワークに集中して疲れた心身を癒すカタルシス(清涼剤)の役割を担うことになる。こうして漸くライフワーク(思想・回想・遺すべき事々等々の整理・体系化、など)を進めることが出来るようになった。

 

(こんな逡巡も苦を凌ぐ生き方の一端を意味しているのかな…ともあれ「自分のカプセル」は生きていく中で、欠かせない「心の旅の装備」だと思っている。)

 

「結論とは過程の集積体である」        H27.9.24記 

これまで、そこに至る過程を通り越して結論だけを示すことを追求してきたが、それが無意味に近いことが分かってきた。結論はそこに至る過程を意味付ける役割を持つものであって、それ自体、価値ある存在たり得ないのに。

 

これまでは結論に至る過程などは無意味だと思っていた。しかし、よく思い返してみると、私が歩んできたこれまでの人生で、楽しみ、苦しみ、泣き、笑い、酔って過ごしてきたことは、いずれも課程の中にあったことに思い当たる。

結論は、その過程を意味付けることにおいて、初めてそれ自体、意味を持ってくる。

 

人生の結論は死だ。死そのものには意味がない。が、人が如何に生きてきたかという過程と結び付いた時、死は大きな意味を持ってくる。この場合、人生という過程が、死という結論を位置付け、意味付ける立場をとることになる。

 確かに、死に至るまでの、人生の、日常の中での、11つの出来事にも

結論めいた区切りはある。しかし、それは死という大きな結論に対して1

つの過程に外ならない。

 

人はある1つの結論を目標として掲げ、それを実現させるために努力する。そして、その目標が達成すると新たな目標を掲げて努力する。これを繰り返した末に死を迎える。死という一瞬の結論を得るまでの全ての時間を「課程」として生きていくのである。

ここに至って、「課程」それ自体が「結論」の中身であることが証明される。即ち「結論」とは、もっと厳密に言えば「結論の中身」は、ある一点によって説明されるものではなく、「課程という無数の点」の集積体なのである。

 

(「魂との邂逅」を求めるなら少なくとも現時点における自分なりの「結論」を得てから、と思ったが、考えてみれば、人生に於ける結論なんて無いのではないか。何処まで行っても「課程」でしかないのではないか。)