呟⑪「戦争・2」 | 獏井獏山のブログ

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・俺がまだ幼い頃の事、大半は9才上の兄貴に聞いた話であるが…

・住んでいたのは大阪の南にある郡部の田舎の村だった。数百メートル離れた隣村との間に兵舎があった。その周囲には田圃が広がっていた。

・この兵舎には100人ぐらいの兵隊さんが住んでいたらしい。その兵隊さんが行軍と称して村の目抜き通り(と云っても石ころだらけの砂利道に整列して入ってくる。時刻は決って昼前で、指揮官の号令で兵列が歩を止める。そして次の号令で通りの両側に分かれて座り込むのだ。すると門前の道端に座り込まれた家の母親や女子は炊きたての高粱米(偶には麦飯)を釜の儘、表に出して、兵隊さんが差し出す弁当箱におかずを添えて次々と装うのだ。隣家もその隣も居並ぶ十数軒の家々も同じことをするのだ。

・理由は「お国の為に働いて(戦って)いる兵隊さんには真っ先に飯を食べてもらう」のだ。ご飯を出している家族(殆どが農家)では若い者が徴兵に取られて大概は大陸の南方方面で戦っているので、せめて地元の兵舎の兵隊さんを大事にするのが当たり前だったのだ。兵隊さんは飢えているので与えられた飯をガツガツ食べる。飯を食べ終えた兵隊たちは再び整列して一応、村外れまで進んだ後、回れ右して兵舎に帰って行くのである。

・こんな事が月に2回はあった。…兵舎から半径1~2キロ以内には10~20の集落がある。各集落で月に2回ずつ同じことをすれば1カ月間の昼食は行軍で済ませられる計算である。ということは年間を通じて昼食は行軍で賄えることになる。

・ご飯を釜ぐち拠出し、おかずも出した家々ではその日だけは残った釜底のご飯をお粥などで量を増やして食うしかなかった。

・思い返すと、兵隊さんは皆んな温和しかった。彼等も何処かの府県の農家等から徴兵された若者なのだ。

(これらの幾つかは子供の頃の俺の頭に今でも残っている記憶である。序でに付け加えると、18才上の兄と、15才上の兄は大陸で戦死した。母親は近所の人が訪ねてくる度に泣いていたのが幼い頭にこびり付いて鮮明に覚えている。)