お出かけ優先のため元日のミサはパスか?と家族で話していたのですが、結局ミサに出てゆっくり出発することになった元日デシタ
1月1日のミサでは毎年、教皇様のメッセージがあるので、神父様のお話(ミサ中のお説教)はそれについてでした。
今年は真面目に神父様のお話をUPしていく所存デス
<神父様のお話>
カトリック教会では、1月1日を世界平和の日と定めています。世界、平和の日なのか、世界平和、の日なのか、細かい所が気になりますが(神父様は『相棒』がお好き) 平和という事について、新年の教皇メッセージでは5つの項目立てで語られています。以下
1 平和 ― 障がいや試練に直面する中で歩む希望の道のり
2 平和 ― 記憶と連帯と兄弟愛に基づいた、耳を傾けるという道のり
3 平和 ― 兄弟姉妹の交わりにおける和解の道のり
4 平和 ― エコロジカルな回心の道のり
5 平和 ― 希望するだけのものをすべて、勝ち取ることができる
耳を傾けるということでは、来日して被爆者に耳を傾けられ、自ら示されました。
さて、「道のり」という言葉が使われていますが、「道」と「道のり」はどうちがうのでしょうか?小学生の皆さん、習いましたか?「距離」はスタートからゴールへ一直線の長さです。「道のり」は、曲がった分も含めて辿った長さですから、距離の方が何キロか短くなるのですね。
「道」は目の映った目の前の道で、長いか、広いかくらいしかわかりませんが、
「道のり」はスタートとゴールが分かっていて、2点が想定されているのです。
希望や平和の道のりという時、スタート地点はどこでしょう。天地創造の時か、アブラハムか、主の降誕からか、復活からか、まさに今この時からなのか、スタートラインはそれぞれ考えられます。
では、ゴールはどこでしょうか?
それは「この世の終わり」です。業界用語で言うと、「終末」というやつですね。
仏教のような輪廻転生ではない、一直線の考え方です。最後に「最後の審判」がある。でも、それは、恐怖の時ではなく、救いに導いてくださる喜びの時です。世の終わりと言うと、地震など怖いことが起こって、、、という話がありますが、そうではなく、私達が救いに入る時です。道を歩んでいるわけですが、世の終わりの救いを見て、今この時点に光を当てることができるのです。必ず訪れる救いの時に光を当てながら、今のこの世界を見ると、今どうすればよいのかがわかるでしょう。
日本に生きていると、仏教が根差しているので、一回リセットして一からスタートと言う考え方がどうしてもあります。紅白でのフィナーレの大騒ぎの後、11時45分になると静かな時間に切り替わる、輪廻を象徴しているような感じがします。しかし、去年の災害を、大震災をリセットできるでしょうか?できませんね。
一直線のキリスト教の考え方では、
喜びや苦しみを体験しますが、最後の救いに向けて希望を持って歩んで行くことができる。それが希望の道です。
マリア様は、馬小屋に羊飼いたちが訪問して来た時、「この出来事を思いめぐらしていた。」とあります。それは、「わからないけれども、大事な事かもしれないから覚えておこう」というのではなく、「救いの光に照らして、今この時、この意味がどういう事なのか」と考えていらしたのではないかと思うのです。
私達も、救いの時に光をあて、そこから見て今の自分がどうしたらよいのか、正しい方向を確かめてゆけますよう、祈ってゆきましょう。
参考
2020年「世界平和の日」教皇メッセージ (2020,1,1) 日本語訳全文はこちら
https://www.cbcj.catholic.jp/2019/12/26/19940/
カトリック新聞2020年1月5日付け記事
教皇「世界平和の日」メッセージ
核抑止力による平和はない
被爆者の証言の力を強調
【バチカン12月12日CNS】
<Huchan78の感想>
教皇様は、広島・長崎の被爆者の方々の証言の持つ力を大事なものとして、続けて守っていくべきものと捉えられたのですね。
「証言は、どのような支配欲や破壊欲を前にしても、人間の意識をさらに強固にするために、犠牲者の記憶を呼び起こし守っています」
「ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり、起爆剤なのです」と言われているように、
日本には、体験を語る方々が減る中でも、語り継ぎ、残せるものは残していくという役割があると思わずにはいられません。
↓カトリック焼津教会の聖母像